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たくさんの感謝と後悔と聞きたいこと。二度と会えない、だいすきなひと。

わたしが生まれたときからずっと、そばにいてくれた人がいました。

わたしのおばあちゃんの知り合いのおじさん。Yさん。

これは、わたしと彼が、出会ってから別れるまでの出来事と、
私自身の後悔と感謝の思いを書きました。

*

おばあちゃんの家がある地域は田舎で、
近所の飲み屋で数回顔を合わせれば友人になるし、
裏手のおうちの人の情報は嫌でも耳に入るし、
同じ学区の子供のことは地域のみーんな知っているような
そんな場所。

田んぼがずーっと続いていて、
どこまでが家の敷地なのかわからないくらい雑木林や畑に囲まれているような、
そんな家に生まれたわたしの母。
そしてその母から生まれたわたし。

わたしは、母のお父さん、つまり母方の祖父に会ったことがない。

わたしが生まれる前、母が高校生のときに祖父は亡くなっている。

どういう運命の悪戯かわからないけれど、祖父が亡くなる数週間前にYさんと居酒屋で偶然出会う。
祖父な病気だったわけでもなく、当時は健康体だったらしい。
でも、
「うちの家族を頼む。」
とお酒の席で言われたらしい。

そのときは酔っ払った勢いの口約束というか、殆ど冗談のつもりの会話だったかもしれない。けれど、その後祖父は旅立ってしまった。

そのあとすぐに、Yさんがおばあちゃんや母の様子をよく見にくるようになり、それからずっと、わたしたち家族のそばにいてくれた、らしい。

当時高校生だった母も成人し、結婚し、
そしてわたしが生まれた。

小さいころはほぼ毎日、本当にずっとそばにいてくれたことが
当時の写真を見るとわかる。

Yさんは血の繋がりのないわたしたち家族に対して、
どんな気持ちで接してくれていたのだろう。
Yさんにとってわたしはどんな存在だったのだろう。

「孫のように可愛がっていたんじゃないかな」

とおばあちゃんや母は言うけれど、
本人の胸の内はわからない。知る術もない。

たったひとりでたくさんのものを守り、
背負っていたんだと思う。

わたしには到底計り知れないことだから、
わたしが勝手に彼の人生を語ることなんてできないんだけど、
わたし視点のYさんとの出来事と想いを、はじめて文字にしてみようと思う。

ずっとピッタリくっついていた幼少期

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わたしが3歳になる年までは、
おばあちゃんの家から数十分の場所に、母と父と3人で住んでいた。
父は当時夜勤の仕事をしていたこともあり、
母は頻繁におばあちゃんの家に足を運び、一緒に子育てをしてくれていた(らしい)。
夜ちゃんとした睡眠が取れていない母は、昼間はおばあちゃんの家で仮眠をしていた(らしい)。
だから昼間はずっと、おばあちゃんと遊んでいた。

妹が生まれるタイミングで、おばあちゃんの家からは、もともと住んでいた家より少し遠くへ引っ越した。

遠くといっても数十分が1時間弱になった程度で、
幼稚園に入園するまでの間も、
よくおばあちゃんの家に親子で遊びに行っていた(らしい)。

そんなこともあってわたしは超おばあちゃんっ子。
おばあちゃん大好き。
きっとおばあちゃんもわたしのこと大好きでいてくれてると思う。(笑)

そんな毎日の中、
常に一緒にいてくれた人がもうひとり。それがそのYさんで。

お行儀が悪いこと、怒られること、でもやりたくなってしまう楽しいこと。
それを教えてくれたのがYさん。
たくさん、たくさん一緒にふざけてくれた。
一般的には、頭を抱えられたり、叱られそうなことも、一切叱らずに見守ってくれていたのがおばあちゃんと母。

夏には大きなスイカを真っぷたつに割って一緒に食べた。
毎回残った汁をジュースみたいにストローで吸わせてくれた。
スイカの真ん中の、一番甘いところだけをスプーンで掘って食べて、ジュースができるのを待っていた。

おばあちゃんちの日めくりカレンダーを好きなだけめくって
粉々にちぎって、上から大量に落として、「雪ごっこだよ〜」と遊んでくれた。
(掃除大変だっただろうなあ・・・おばあちゃんごめん・・)

会えば必ず肩車をしてくれた。

買ってくれたワンピースは一番のお気に入りになった。

小さいころの、微かな記憶の中の彼はいつも笑顔で。
会うときはいつも、わたしたちを脅かそうと、決まって物陰に隠れてから登場するんだよね。

上手く話せなかった思春期

小学校高学年から高校生くらいまでの間は、
親戚の集まりでも、大人と話すのが恥ずかしくなって、
携帯を触ったり、妹と遊んでいる時間が多くなった。

おばあちゃんとは変わらず話せたけど、
Yさんとは上手く話せていたかなぁ?

「学校はどうだ」「部活は楽しいか」「将来はなにになりたいんだ」

そんな風に聞かれると、真面目に答えるのがなんだか照れ臭くて、
「別に、普通だよ」
と会話を盛り上げようとしないわたしがいた。
もっとたくさん話しておけばよかったなぁ。

初めて彼氏ができた時も、親元を離れて彼氏と同棲を始めた時も、
おばあちゃんにはすぐに報告ができたのに、
Yさんにはできなかった。

でも会うたびに心配そうな顔で、
「なんだその首飾り?彼氏とお揃いか」(違ったんだけどね笑)
「もう母さんのところ(実家)に住んでないんだって?」
って聞かれたなぁ。
直接報告すればよかった。

そしたらなんて言ってくれていたんだろう。

おめでとう、かな。
そいつ連れてこい、かな。(笑)

わたしたち家族のことをいつも心配していた

そしてYさんはわたしたち家族のことをいつも心配してくれていた。

わたしは22歳のとき、職場の人間関係やストレスにより適応障害になった。
そのとき、
職場にも、家にも居れなくなったとき、
逃げ込むかのようにおばあちゃんの家に足を運んだことがあった。

詳しい状況は話さなかったけれど、
「いまは仕事をやめて、再就職もせず休んでいる」
と説明すると、
「なにかあったらおばあちゃんに相談したり、ここに遊びにおいで」
と帰り際にまっすぐ目を見て言ってくれた。
その一言に当時のわたしはどれだけ救われたかわからない。

わたしの母のこともいつも気にかけていて、
「おまえさんが一番心配なんだよぉ」
と、いつも笑ってごまかしながら言っていたけど、
本心だったんだろうなと今となってはわかる。

わたしの母は本当にメンタルが不安定で、
いつまでも少女のようで、
すぐに泣いたり、怒ったり、落ち込んだりする。
そんな母を10代の頃から見てきて、
母になっても、その印象は変わっていなかったんだろう。
わたしの母も、Yさんを父親のように慕っていた。

膵臓がんの手術をすると母親づてに伝えられる。

あれは2017年。季節は忘れてしまった。

母親から1本の電話があり、
「Yさんが膵臓がんの手術をすることになった」
と伝えられた。

早期発見だったのか、進行していたのか、わからないけど、
当時の手術は成功し、家に帰ったと後日母から報告された。

『手術は成功して、家に帰ってるなら、
またおばあちゃんの家に遊びに行けば、
予定を合わせて会いに来てくれる。』

そう思っていたので、次の長期休みのときに、
いつものように遊びに行く日取りをおばあちゃんに伝えた。
いままでだったら「じゃあYさんにも言っておくね😄」
と言ってくれて、その日はYさんもおばあちゃんの家に集まり、
一緒に過ごすのが当たり前だった。

でもそれ以降、Yさんが来てくれることはなかった。


「元気でお変わりないですか?俺はすっかり変わっちまった…」

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Yさんと会わなくなってから1年以上が過ぎていた。

「ねえ、Yさんって今日も忙しいの?」

おばあちゃんの家に遊びに行ったタイミングで、
おばあちゃんに聞いてみると、
「今日も来れないみたい。電話してみようか?」
と電話を繋いでくれた。

「はるちゃんが今うちに来ててね、Yさんをお話したいって言ってるよ」
と言って変わってくれた。

Yさん「おう〜久しぶり。元気でお変わりないですか?」
わたし「うん。」
Yさん「お〜そっかそっか〜よかった。俺はすっかり変わっちまってよぉ…」

(変わっちゃったってどういうことだろう…?)

電話が終わった後、Yさんの体はそんなに悪いのかとおばあちゃんに尋ねた。
すごく悪いわけじゃないけど、前のようにはいかないから、
その姿を見せるのが、あまり気乗りしないみたいだよ。
と言われた。

どんな姿でもいいから、顔を見せたかったし、顔を見たかった。

いつかまた元気になって、笑って会えるってことかなと
その頃はそう思っていた。

数年ぶりの再会

2019年の秋。Yさんの病気が発見されてから約2年が経っていた。

わたしは2018年の年末に、結婚をしていた。
Yさんには結婚の報告も直接できていない状態だった。

入籍してから半年以上が経ち、
冬に結婚式を控えていたわたしは、おばあちゃんの家を尋ねた。

どうしても直接招待状を渡したい。
事前にそうおばあちゃんに言うと、わたしの気持ちを汲み取ってくれて、
Yさんに連絡をしてくれていた。

数年ぶりの再会ですこし緊張して体が強張った。

おばあちゃんの家で待っていると数分後、
おばあちゃんの車に乗ってYさんがやってきた。

庭先で車から降りてきたYさんを見て、わたしは驚いた。

もともと体格が良かったYさん。
細身だけど筋肉がガッチリしている印象だったのと、
肌はいつも日に焼けて真っ黒だった。

数年ぶりに会ったYさんは痩せていて、
顔も白く、帽子を深くかぶっていた。

「前と変わってる?」
ぼーっと庭先を眺めるわたしに当時の夫が聞く。
「うん。」
とだけ答え、Yさんの前では笑顔でいようと心に決める。

部屋に入ってきたYさんは、ゆっくりとした足取りで床に座り、
「おぅ、よく来たな〜」
と言ってくれた。

それからは結婚の報告、夫の紹介、Yさんからの結婚相手を見定めるような質問(笑)、そして結婚式の招待状を渡し、すこし昔話をした。

昔と変わらない笑顔と、訛りで聞き取れない言葉が聞けて、
子供のころ一緒に過ごしたときと変わらないYさんを感じれて、嬉しかった。
小一時間でYさんは帰ることになった。

Yさんとの写真をあまり持っていなかったので、
庭先で写真を撮ろうと提案して、Yさん、おばあちゃん、当時の夫、わたしの4人で写真を撮った。

本当はYさん、おばあちゃんと3人で撮りたかった。撮ればよかった。

「すごく大事な子だから、大事にしてやって」

帰り際、当時の夫にYさんがこう言っていた。
嬉しくて涙が出そうになった。

「泣きたいのはこっちだよ…」結婚式の晴れ姿を見せられない悲しみ。

招待状を渡してから数週間が経ち、結婚式の日付が近づいてきた。
渡した当初は「行けそうだったら行きます」と言っていたYさんから、
最終的に来てくれるのかの返事が来ない。

人数を確定しなければいけない締切日が来たので、
おばあちゃんに確認の電話すると、ギリギリまで悩んでいるとのこと。
出席者に含めて準備を進め、お席やお料理は用意することに。

それから1週間くらい経ったある日のお昼の時間帯。
職場で昼休憩をとっていたわたしへ、おばあちゃんから電話が入る。

「Yさん、体調も優れないし、元気のない姿をみんなにも見せたくないから今回の式は遠慮するって。」

わたしはショックで言葉を失った。

なにがショックだったかというと、
・結婚式の花嫁姿を見せられないこと。
・1日外出も困難なほど体調が優れないと本人が思っていること。
・そして実際に優れないという事実。
・おばあちゃんが悲しそうにしていること。

泣いていることを悟られないように、声を殺していたけれど、
なにも返答しないわたしに、
泣いていると察したおばあちゃんは、
その場にいたYさんに電話を代わってくれた。

「ごめんな〜。無理できなそうだから今回はやめておく」(みたいなことを言われたような記憶。あまり覚えてない…)
「・・・・わかった」
「泣くなよ〜。泣きたいのはこっちだよぉ」

たしかにそうだ。とハッとした。
わたしも悲しいけど、本人やおばあちゃんの方がつらいに決まっている。
わたしが悲しむほど、ふたりもさらに悲しい気持ちや、申し訳ない気持ちが募ってしまうだろう。
ふたりの前で悲しむのはやめよう、と決めた。

「そうだよね、ごめん・・。じゃあ、終わったら写真いっぱい見せるね!」

そう言って電話を切った後、職場のトイレで泣き崩れた。

おばあちゃんが仕立てたウェディングドレス。

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結婚式直前の準備に追われる中、母親から連絡があった。

「Yさんがうちら家族と写真が撮りたいって言ってくれいるみたい。はるかはウェディングドレスを着た状態で。」

わたしが結婚式で着たウェディングドレスというのは、
おばあちゃんの手作りドレスで。

母親が結婚するときにおばあちゃんが一から作ったものを、
その娘のわたし用にリメイクしてくれたものだった。
(うちのおばあちゃん天才。神。)

そのドレス姿をわたしはどうしてもYさんに見てほしかった。
でもそれは写真でしか叶わないんだ、と諦めていた。
だからせめて当日は最高の笑顔で写真に写ろう、最高の1枚をプレゼントしよう、そう思っていた。

Yさんも同じ気持ちでいてくれたのかな。
スタジオを借りて、そこで写真を撮ろうとお願いしてきてくれたらしい。

本人の前では絶対に泣かないと覚悟を決めて会いに行くことにした。

「やっと撮りたかった写真が撮れる」

結婚式後に日程調整をして、
母、父、妹、おばあちゃん、当時の夫、わたしで、
Yさんの家からそう遠くない写真スタジオを予約して会いに行った。

招待状を渡した日から、3ヶ月も経っていないのに、
Yさんはひとりで歩くのも難しい状態になっていた。
車椅子で移動し、車からの乗り降りは介助が必要だった。

Yさんの奥様が介助で同行してくれていた。
こんなに長い付き合いだったのに、奥様とは初対面。
やさしそうで、繊細そうで、腰が低すぎるくらいの方だった。
「今日は主人のわがままに付き合ってくれてありがとうございます」と言われた。
「こちらこそありがとうございます」と返したけど、なんと言っていいのかわからなかった。

車2台で移動した。
おばあちゃんの車に、おばあちゃん、わたし、妹、当時の夫で乗り、
父の車に、父、母、Yさん、Yさんの奥様で乗った。
道中の会話とかをこっちでは心配していたけど、それは杞憂で、
あとから聞くと、母が地元の美味しい大判焼き屋さんの話をして盛り上がっていたらしい。(ほんとうにさすがの母。)

スタジオに到着し、わたしはウェディングドレスに着替えるため更衣室へ。
他の家族たちで撮影や料金の打ち合わせをしてもらった。

セットをして撮影がはじまる。

スタジオのスタッフさんには詳しい事情は話していなかったので、
「この家族は一体誰がなんなんだろう・・・?」
と思われていたに違いない。

まずはYさん、おばあちゃん、父、母、妹、わたし、当時の夫の7人で写真を撮った。

結婚祝いの写真と思われたのか、真ん中にわたしと当時の夫が座り、
その両脇におばあちゃんとYさん、うしろに父、母、妹と立った。

(誰が主役の写真なの?Yさんとおばあちゃん真ん中で撮りたいのに…)
と思いながらも、スタジオの急かすような空気感に圧倒され、カメラの前でぐだることは許されなかった。

シャッターが切られる中、どこを見ていいかわからず顔が引きつる。

(もしかしてこれがYさんと撮る最後の写真かもしれない…)
なんて思ってしまいうまく笑えない。

「お母さん、もっと笑顔で〜!」
「後ろのお姉さんも、あ、いいですね〜」
「お嬢さん素敵ですよ〜」

見た目的にも、人数的にも、関係性がわけわからぬ人物構成に、
スタジオのスタッフさんも戸惑いながらも声をかけてくれるので
思わず笑ってしまった。

そういえば、こんな風にわたしたち家族と、Yさんが外で他の人と接したのは
かなり久しぶりだったかもしれない。
昔はよく遊園地や、レストランへ行っていたなぁ…。

ぼーっと考えているうちに写真撮影が終わった。
隣にいるおばあちゃんを見ると目が合った。困ったように笑っていた。

「以上となりますがよろしいでしょうか。よろしければお写真の選定となります」
とスタッフさんに言われ、

「あの…もう1カットいいですか」
とお願いをした。

「おばあちゃん…あ、こちらの女性と、こちらの…方と…わたしの3人で撮りたいです」

わたしのわがままになってもいいから、Yさんとおばあちゃん3人での写真がどうしても欲しかった。
そして必要だと思った。後悔すると思った。
このふたりに挟まれて、笑って写真を撮りたい。そう思った。

「かしこまりました〜、では〜お椅子を減らしますので少々お待ちください〜」
とスタッフさんが言って、せかせかと椅子の配置を変え始める。

「3人で撮ってもらうことにしたよ。もうちょっとだけ時間いーい?」
とYさんに声かけると、
はじめからそのつもりだったのか、

「あぁ、やっと撮りたかった写真が撮れるよ〜」
と笑って言われた。

(Yさんは3人で写真を撮りたがってくれていたのに、他のみんなは全員の集合写真だけ撮って帰ろうとしていたのかな?)
と、一瞬苛立ちを覚えたけど、Yさんとおばあちゃんに挟まれて椅子に座ると、その苛立ちもすぐに消えていった。

いつもそうだった。
わたしは子供の頃から感情の起伏が激しくて、すぐに泣いたり怒ったり拗ねたり、
親戚の集まりでもひとり部屋を抜けて、お庭や別室で泣いていることが多かった。

そんなときはいつも母ではなく、父でもなく、
決まっておばあちゃんが隣に来てくれる。
そしておばあちゃんがいなくなった部屋では、Yさんが楽しく場を盛り上げてくれていた。
幼少期から思春期までずっと、このふたりに甘えっぱなしだったんだ。

「じゃあ撮りますよ〜こっち向いてください〜!」

そう言われ3人で前を向いたとき、
横目にふたりのことが見えて泣きそうになった。
泣くのを堪えたら、鼻が痛かった。目が熱かった。息が苦しかった。
全然うまく笑えなかったけど、
「おばあちゃんのウェディングドレスを着て、Yさんの前で最高の笑顔を見せる」
という覚悟があったから、なんとか笑顔をつくった。

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撮影はあっという間に終わってしまい、
(あ〜どんな顔してたんだろ〜ミスった〜)
と思っていたら妹がスマホのカメラを向けて近づいてきた。

撮影スタジオでは、スマホやデジカメでの写真撮影は禁止されていたけれど、
動画ならOKということで、ビデオを回してくれた。

ほんの1分程度の動画だったけれど、Yさんとおばあちゃんとわたしが一緒に笑っている動画だった。

あとで何度も繰り返して見ていると、Yさんはいままで1番じゃないかなってくらいの笑顔でわたしの隣にいてくれていた。
わたしも2歳のときと同じようなピースサインをして隣で笑っている。
思わずその部分をスクショして、ガシャガシャの画質の画像をスマホのホーム画面にした。

みんなで撮った写真は、2週間ほどで完成すると言われた。
アルバム形式にして各自保管しておこうと言って、4部注文した。


せっかく撮った写真なのに、見せることができないかもしれない

写真を一緒に撮った日から約10日後、
「Yさんの体調が急に悪化して、緊急入院した」
と母から連絡があった。

写真の現像まであと2−3日はあった。
もしかしたら見せられないかも、という嫌な考えがよぎる。

あの日の写真を、”やっと撮れる”と言ってくれたあの写真を、
絶対に見せてあげたい…。

万が一間に合わなかったときにと、
妹の動画を何枚もスクショして、ガシャガシャの画質の写真を数枚印刷した。
本当は本物の写真を見せてあげたいけど…。


連絡をもらった翌日が休みだったので、わたしは実家へ行き、母、おばあちゃん、母の弟(わたしの伯父さん)と一緒にYさんが入院する病院へ行った。

そこにはベッドに横になり目を閉じてゆっくりと呼吸をするYさんがいた。
窓際にはYさんの奥様、Yさんの妹さんがいた。

おばあちゃんは気まずそうに病室へ入り、
その後ろに母、伯父さん、わたしと続く。

おばあちゃんは普段の口調で、
「おーい、みんな来てくれたよー」と枕元へ近づき声をかける。
続いて伯父さんもなにか声をかけ、
そのあとに母は恐る恐る近づき、泣きそうな声で「わたしだよ、Yさん、目を開けてよ」と言っていた。

わたしはなぜかそこに近づくことができなくて、
病室の端っこでYさんたちを眺めたり、窓際にいるYさんの奥様と妹さんに会釈をしたりしていた。

会話のできないYさんに声をかけることができない。
遠くからでもわかる、真っ白になった顔を近くで見ることができない。
痩せ細った体を確認することができない。

手と足がガタガタと震えて、いまにも泣き出したかった。
すぐにここを出たかった。
いつかこの日が来ると思うと怖かった。
結婚式の欠席の連絡が来てから、わたしはずっとずっと怖かったんだ。

「はるちゃん、おいで」

おばあちゃんに手招きされ、ゆっくりと近づく。
Yさんに1番近い場所を開けてもらい、そこに立つ。

「Yさん……」

そのときYさんの目が開いた。
うっすら目が開いたと思ったら、しっかり目が合った。

口をパクパクさせていた。声は出ていなかった。
でも、「ばあさんとママを頼んだよ」と言っていた気がした。
いや、絶対に言っていたと思う。

わたしがびっくりしてその場で棒立ちしていると、
おばあちゃんがさらに驚くことを言う。

「今日、ダメ元で写真屋さんに行ったら、アルバム出来上がってたよ」

え?!?!?!そうなの?!と心臓が飛び上がったけど、
同じくらいびっくりしていた母のリアクションによってわたしは冷静さを保てた。

10日前にみんなで撮った写真。
そこには笑顔のYさんが写っていた。

おばあちゃんが枕元へアルバムを開いて見せるけど、大きな反応はない。

「あとで見せてあげて」
と奥様に渡すとその場でアルバムを開いた奥様は、顔にタオルを当てて泣いていた。

わたしが前日、咄嗟に印刷した、画質ガシャガシャの写真も一緒に渡すと、
「本当にありがとう」と手を握ってくれた。

あまり長居しても疲れちゃうだろうから…という伯父さんの言葉を機に、
わたしたちは退室することにした。

母は再度Yさんの元へ行き、
「また明日も来るからね」
と泣きながら声をかけていた。

わたしはそんな母を遠巻きに見ることしかできずに病室を後にした。

家族以外はもう会えない。

病室を出て、家に帰ろうと駐車場へ行くと、病院の受付をしてくれた伯父さんがこう言った。

「今夜以降はもう家族以外の面会は不可だって言われた。」

えっ…、と思うと同時に、”そういうこと”なのか…と絶望がわたしを襲う。
すると状況を理解できていないのか、できているけど認めたくないのか、母は冷静さを失いながら、

「なんで?なんで?どういうこと?明日も行くって言っちゃったっ…明日も行こうよ…」

と言っている。
伯父さんは冷静に「そういうこと、なんだろうね…」とだけ言った。

状況を受け入れられない母と、冷静な伯父さんの会話を耳に入れながら、わたしはぼーっとしていた。
伯父さんがはおばあちゃんに「どうする?」と尋ねる。
おばあちゃんのほうへ視線を移すと、泣いてもいない、笑ってもいない、困ってもいない、すこし怒ったような表情で、

「家族以外って言われても…

家族同然の付き合いだから。」

と言った。いつもわたしの前ではやさしくてにこにこしているおばあちゃんの、強気な態度をはじめて見た。

驚きとともに、わたしは哀しくなって、
どうにかしておばあちゃんの希望を叶えてあげたくなった。
最期に後悔が残らないように、出来ることはしたいと思った。

おばあちゃんが明日も来るならわたしも一緒に来るよ。
もし入れないとしても病院には来ようよ。
と提案した。
おばあちゃんはすこし冷静になったのか、「うん、今日はもう帰ろっか。」と言ってみんなそれぞれ家に帰った。

最期まで声が聴こえるみたいに。

お見舞いに行った日の夜、Yさんが天国へ旅立ったと訃報が届いた。

日付が変わってすぐのことだったらしい。
最期は奥様と妹さんに見守られて逝ったみたいだった。

なんとなく夢を見たような、部屋の隅にYさんの顔がフッと消えていくような映像が脳裏に浮かんだんだ。
それだけでわたしは満足で、きっとわたしたちの想いは最後に届いたと思えた。

最後に会ったあの日、声は聞こえなかったけど確かに言っていた、
「ばあさんとママを頼んだよ」という言葉。
もう表情を動かせなくなっていたけど、写真を見せたときは、きっと笑ってくれていただろう。

そう思うことで自分を納得させたいだけだったのかもしれない。
そう思うわないと、後悔に押しつぶされてしまうからかもしれない。
当時のわたしは自分を保つために、後悔の念に気づかないよう必死だった。

お通夜と告別式は、クリスマスイヴとクリスマスの日に行われた。
おばあちゃんは
「クリスマスで浮かれてないでおれに会いに来いって言ってるのかもねー?」
なんて冗談めかして笑っていたけど、
Yさんの人柄から、本当にそう言いそうで、聞こえてきた気がしてわたしも笑った。

告別式では、奥様のご配慮で、火葬場まで連れて行ってくれた。
棺桶にはおばあちゃんがYさんのためにつくった帽子や、わたしが以前プレゼントしたネックウォーマーを入れてくれた。

棺の中で眠るYさんを一瞬だけ覗くと、
すっかりおじいさんになったYさんが眠っていた。
いつも日に焼けた肌で、くっつくとちょっと脂っぽい肌だったYさん。
この日は綺麗に整えてもらっていて、いままでで1番綺麗だった、よ。

本当のお別れをしたけれど、
もう二度と会えないことはわかっているのに、
写真を見るたびにすぐ近くにいるような、
笑い声が聞こえてくるような、
そんな感覚がこの日からずっと続いている。

ずっと行けていなかったお墓参り。

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Yさんとお別れをしてから、1年半以上経ってしまった、ある夏。

お盆の時期にYさんのお墓に行くことにした。

おばあちゃんに場所を聞くと、少し気まずそうにして、

「わたしもなかなか行けてないの」

と言った。
意外だなー、もっと頻繁に行ってるのかと思ったーと思いながら電話で会話をしていると、

「あの家、いまは誰もいなくなっちゃったから…」

と言った。
知り合いは元々Yさんだけだったけど、奥様とも最後の最後にYさんを通じて知り合った。
告別式の後、挨拶を交わして笑い合うおばあちゃんと奥様を見ていたし、その後たけのこだか、さつまいもだかをお裾分けしたんだーという話も聞いていた。その後は結局交流なく、気まずくなってしまったんだろうか。

「奥様とは最近は、会ってなかったの?」

そう尋ねたわたしは、少しも予想を出来ていなかった言葉を電話越しに聞くことになる。

「なんか…亡くなってたみたいなんだよね」

え?意味がわからない意味がわからない。
でもその数秒後、気まずそうに自分が知る限りの情報をわたしに伝えるおばあちゃんの声で、状況を理解する。

たった数回しか会ったことはなかったけれど、
わたしたちのずっとそばにいてくれたYさんが、
大切にしていたひと。

そしてYさんの最期に、わたしたちを受け入れてくれて、最期までYさんに会わせてくれたひと。

ふたりにしかわからない世界があっただろうし、
計り知れない苦労も、たくさんあっただろう。
最期は安心して眠れたのだろうか、そうだといいな、と願うことしか出来ず、
自分の無力さを思い知った。

たった数回しか会ったことはなかったけれど、
またいつか会えるような気がしていた。

そのときはおばあちゃんと3人でYさんの話をしたいなって。

Yさんがわたしたちにどんな気持ちで接してくれていたのか、なにか聞いていましたか?って。
Yさんがわたしたち家族を大事にすることを、どう思っていましたか?って。
複雑な思いもあったに決まってる。それだったらごめんなさい、って。でもありがとうございます、って。
そしてYさんはわたしのことを、どんな存在と思ってくれていたんですか?って。

聞きたいことがたくさんあったし、伝えたいこともたくさんあった。

Yさんに言えなかったこと、
奥様に伝えて少しでも楽になろうとしていただけだったのかな…

お互い独りきりになってしまうおばあちゃんと奥様が心配だった。
だから談笑するふたりを見て、「最期にYさんがふたりを会わせてくれたのかな」なんてわたしは安心していたんだ。

予想外の出来事に、動揺と後悔と虚しさでひとり泣き崩れた。
何日も何日もYさんと奥様のことを考えた。
わたしは何がしたかったのか、何が出来なかったのか、なぜこんなにも泣けてくるのか、なにをするべきなのか。
その答えが出たのがYさんのお墓に会いに行ったときだった。

『なかなか会いに来れなくてごめんね。』
『わたしのことは心配しなくて大丈夫だからね。』
『おばあちゃんのことはさみしくさせないからね。』
『どうかみなさまがゆっくり休めますように。』

顔を上げて横を見ると、お墓の前で気まずそうにするおばあちゃんがいた。
そんな彼女の様子が頭から離れず、わたしは覚悟を決めたんだ。

彼女にとってのYさんはなんだったのか、答えに辿り着けるようなヒントをわたしが見つけよう、って。
きっとそれがわからないままなのだろう。
正直言ってわたしはふたりの関係がどんなものだったのか知らない。
固い友情だったのか、それとも恋仲だったのか、はたまたYさんの義理堅さから支えてくれていたのか。
それはわたしにはわからなくてもいいから、彼女の中で納得できる答えを見つけてほしいと思った。
そのためだったらわたし、がむしゃらになろうって。

はじめて夢に出てきてくれたあなたは、わたしのほうを見ていなかった。

お墓参りをしたその晩、はじめてYさんが夢に出てきた。

夢の中でYさんは、電車に乗って何人かの人に囲まれていて、
そこにわたしが乗り込むんだけど、Yさんはこっちを見ない。

わたしはYさんに話しかけようと目の前に行くんだけど、
全くこちらを見ようとしないYさん。
わたしも次第にYさんから遠のいて、
最後は別の車両くらいの距離からYさんを眺めていた。

って夢だった。
会話もしない、目も合わさないってことは、
まだまだこっちには来るな、って意味なのだろう。

会いに来てくれて、ありがとう。うれしかったよ。

このお話はここで終わってしまうけれど、
わたしとYさんのお話はまだ終わらない。

ここからYさんの本当の思いに辿り着くには、
道もないし、地図もないし、あてもない。

けれどいつになってもいいから辿り着きたい。
きっとそのとき、わたしがどう生きていくのかもわかる気がするんだ。


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