Happy Women's Map 広島県広島市 ソ連に亡命した女優 岡田 嘉子女史 / Japanese Actress Who Defected to the Soviet Union, Ms. Yoshiko Okada
「人と契るなら、薄く契りて末遂げよ。もみじ葉を見よ。薄きが散るか、濃きが散るか、濃きが先ず散るものでそろ」(小唄)
"If you’re to form a bond with someone, make it gentle and fleeting, let it dissolve softly. Just like maple leaves—watch which ones fall first. It’s the thick leaves that drop before the thin ones." -traditional Japanese song
岡田 嘉子女史は日本またソ連の女優また日本語アナウンサー。演出家・杉本良吉とソビエトに亡命、スターリンによる自由派知識人・芸術家の粛清はじめ対日工作に協力させられながらも、再びソ連と日本の舞台に立ちます。
"Yoshiko Okada was an actress and Japanese-language announcer in both Japan and the Soviet Union. She defected to the Soviet Union with director Ryoichi Sugimoto and, while being coerced into aiding Stalin's purges of liberal intellectuals and artists and anti-Japanese activities, she continued to perform on stages in both the Soviet Union and Japan."
岡田 嘉子 女史
Ms. Sumiko Okada
1902 - 1992
広島県広島市細工町(現:広島市中区大手町) 生誕
Born in Hiroshima-city, Hiroshima-ken
「文芸一家」
嘉子は新聞記者で文芸を愛する父・岡田武雄と、オランダ人の血を引き和歌を愛する母・ヤエの次女として誕生。父が新聞社を変わる度に一家で釜山、横須賀、東京などに移り住みます。嘉子は幼いころから舞台好きで、家族で出かけた映画や寄席で花道に躍り出たり、父親が購読する文芸雑誌を研究しながら教会や学校の学芸会で張り切ります。松井須磨子に憧れる嘉子は女優業を志すも、両親に反対され女子美術学校西洋画科へ進学。北海道小樽「北門日報」の主筆に招かれた父のもとで同社の婦人記者として入社すると、文芸を担当しながら地元の芝居に出演して父親の説得に努めます。まもなく18歳の嘉子は父親と上京します。
「憧れの芸術座」
憧れの芸術座で劇作家をつとめる中村吉蔵の内弟子となるも、芸術座は島村抱月の病死と松井須磨子の自殺で解散。それでも文芸記者を長年務めた父親の全面的バックアップのもと、嘉子は新劇俳優・加藤精一の弟子になり、長唄、日本舞踊、バイオリン、朗読、英語のレッスンに通いながら、中村が旗揚げした新芸術座・新文芸協会などに出演。二十歳前後の若い女優が少ない中で、若い僧侶と町娘の恋愛物語など新鮮なラブシーンで人気者になります。地方巡業中に、座員で早稲田大学予科の学生・服部義治の男児を出産したり、共演者・山田隆弥と愛人関係になったり世間の話題となりながら、サイレント映画でも活躍します。関東大震災を境に日活京都撮影所と契約すると、月給に縛られながら監督の指示通りに動かされる映画の仕事に失望。29歳の嘉子は『椿姫』の撮影中に、共演俳優・竹内良一と駆け落ちして結婚します。
「ロシア演劇」
脚本の事前検閲が始まり、客席の後ろに検閲官席が設けられ、芝居の最後には全員で「皇軍バンザーイ」。嘉子は「中間演劇」を提唱する井上正一一座に参加、舞台出演をしながら共産主義者の演出家・杉本良吉の愛人となります。杉本が師事した佐野碩ならびに土方与志はソ連に亡命して、ロシア演劇・現代演劇の著名な演出家フセヴォロド・メイエルホリドの指導を受けていると聞かされます。嘉子も、新劇の本場モスクワで演劇の勉強をしたいと憧れを抱くようになります。赤紙に怯えながら、杉本の病身の妻・千恵子に化粧品代と同じ30円を毎月送金しながら、同棲生活を続けること2年。2人は上野駅、北海道、樺太国境を経て、雪をかき分けながらソ連に越境を果たします。嘉子39歳の正月。
「モスクワ」
ソ連入国後3日目には嘉子と杉本は引き離され、GPU(後の KGB)の拷問を伴う激しい取調べが始まります。嘉子は5日間眠ることを許されず精神状態に異常をきたします。通訳の朝鮮人キンは自白を促します。「スパイと言えばソビエト人にしてやる。そうでなければ日本に送り返す。」嘉子は自らだけでなく杉本良吉さらに佐野碩また土方与志のスパイを自白します。隣室の杉本の取り調べは厳しくなり、杉本の苦しさの余り発する悲鳴が嘉子の胸を刺します。やがて杉本も自白して銃殺刑に処され、スターリンによってメイエルホリドをはじめとする自由派知識人・芸術家の粛清が始まります。
嘉子はラーゲリ(強制収容所)と秘密警察内NKVD内無監獄で対日工作をしながら10年を過ごします。出所した嘉子はモスクワ放送外国局日本課に入局して日本語放送のアナウンサーを務め、11歳下の同僚で元俳優・滝口新太郎と結婚。57歳でモスクワ国立演劇大学に通い始め舞台に再び立ちます。78歳で日本映画『男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け』に出演、81歳・83歳・87歳で日本帝国劇場の舞台に出演。89歳でモスクワの病院で逝去。
「人と契るなら、薄く契りて末遂げよ。もみじ葉を見よ。薄きが散るか、濃きが散るか、濃きが先ず散るものでそろ」
-『ルパシカを着て生まれてきた私 (女の自叙伝)』(岡田嘉子 著 / 婦人画報社1986年)
-『世界・わが心の旅 ソビエト収容所大陸』(NHK-BS2 1994年12月4日)
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