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Happy Women's Map 熊本県熊本市 薬害肝炎全国原告団初代代表 山口美智子 女史 / First Representative of the National Plaintiffs for Drug-induced Hepatitis, Ms. Michiko Yamaguchi

-『いのちの歌 薬害肝炎、たたかいの軌跡』(山口美智子 著 / 毎日新聞社2010年)

「自分のこととして人の痛みを知る」感性や想像力が磨かれていくことを期待します。
I hope that you will develop your sensitivity and imagination to "understand other people's pain as if it were your own."

山口 美智子 女史
Ms. Michko Yamaguchi
1956 -
熊本県熊本市 生誕
Born in Kumamoto-city, Kumamoto-ken

山口美智子女史は、全国で初めて実名を公表した薬害肝炎訴訟の原告。薬害肝炎全国原告団代表として「薬害肝炎被害者救済法」の成立ならびに「医薬品等行政評価・監視委員会」の設立を牽引。
Ms. Michiko Yamaguchi is the first plaintiff in Japan to publicly announce her real name in a drug-induced hepatitis lawsuit. As a representative of the National Plaintiffs for Drug-induced Hepatitis, she led the establishment of the ``Drug-Induced Hepatitis Victims Relief Act'' and the ``Pharmaceuticals Administrative Evaluation and Monitoring Committee.''

「陣痛促進剤と止血剤」
 美智子は1987年に次男を出産した際、C型肝炎に感染します。陣痛促進剤を打って普通分娩で出産した数時間後に子宮の弛緩出血が起こります。「血を止める注射をしよう」という医者と看護師のやり取りが聞こえ、止血剤・フィブリノゲンが点滴されます。しかし、出血が止まらず輸血をされ、半日後には子宮摘出の手術をされます。退院する際の血液検査で急性肝炎に感染していることが分かり、再び内科に入院することになります。美智子は生まれたばかりの我が子を抱くこともお乳を与えることもできぬまま、毎日病室の窓から新生児室のある産院の屋根を眺めて過ごします。半年後に退院するとやっと家族みんなで暮らせるようになるものの、月に1回は肝機能血液検査のために通院を続けます。2年後、肝生検で慢性肝炎と診断されます。

「運命でなく人災」
 体力が落ち疲れやすくなった美智子は行動を制限しながら小学校教師を勤めます。2000年の夏、2度目の肝生検査で肝炎の悪化が分かりインターフェロン治療に踏み切ります。それからの2年間は週3回の投与治療を続けます。投与前に毎回解熱剤を内服、悪寒・発熱・倦怠感・下痢の副作用に耐えかつらを被って教壇に立ちます。何百本と打つ注射で腕もお尻も真っ黒に晴れ上がり、夜早くから布団に入ります。体力の限界を感じた美智子は21年務めた教職の仕事を辞めます。2002年、東京や大阪で薬害肝炎訴訟がおこされたことを新聞で知った美智子は、早速産院に問い合わせると薬剤師が残していたメモからフィブリノゲンが止血剤として使われていたことを確認します。「15年間感染は運命だと思っていたが、避けることのできた人災だった」。翌年、福岡地方裁判所に提訴します。

「実名公表」
「お上に盾突く」ことを恐れて匿名原告が多い中、「悪いことをしていないのに、なぜ名前や顔を隠さないといけないのか。国や製薬会社と正面から闘いたい。」美智子は全国で初めて実名を公表して原告団に加わります。2006年に薬害肝炎全国原告団が設立されると代表に就任。廃院・カルテ廃棄によって原告に慣れない人たち、治療費が負担できずに治療に踏み切れない人たち、そして薬害だけでなく輸血また予防接種による感染でウィルス性肝炎患者となった人たちのために、美智子は全国を飛び回って裁判所・国会・世論に訴えます。美智子は治療中の苦しみに加え、時間・体力・気力・プライバシーを失いながらも、誰にでも起こりうる社会問題であると国民全体に認識され問題の全面解決につながるようにするのが使命と自分に言い聞かせます。

「国の違法行為と間違った医療行為」
 裁判の過程で国の違法行為と間違った医療行為が次々と明らかになります。血液製剤フィブリノゲンはアメリカでは有効性に疑問がある上に、ウィルス性肝炎に感染する恐れがあるとして1977年にFDA(食品医薬品局)は承認を取り消していました。その翌月にミドリ十字はその事実を把握しながら7年後の1984年まで厚生省に未報告のまま販売し続け、その3年後に青森の産院で集団感染が発覚してはじめて厚生省が調査を指示。その翌月にミドリ十字はフィブリノゲンの加熱製剤に切り替えるも、安全処理が不十分で被害が拡大。美智子はその翌月に投与を受けて感染していました。1980年以降にフィブリノゲン製剤の投与を受けた患者は約29万人で、そのうちC型肝炎を発症したのは1万人以上。さらに、2002年に製薬会社が厚生労働省に提出していたフィブリノゲン薬害が疑われる肝炎患者418人のリストの個人情報を製薬会社が持っていることが判明。続いて厚生労働省の倉庫から医療機関と個人情報を特定できるリストが見つかります。そして医師達からフィブリノゲンによる集団感染の報告が次々と寄せられるのに対して、当時の厚生省は製薬会社に文献を探して理論武装させ隠蔽するよう指示していました。2004年ようやく厚生省はフィブリノゲンを投与した7000の医療機関を公表するも、その9割以上がカルテを廃棄したと回答。大勢の患者が薬が使われたことを証明できず訴えることができない事態となります。

「私の幼児教育政策論」
 「肝炎被害を発生・拡大させたのは国の違法行為と間違った医療行為を放置した結果である。」その責任に基づいて、美智子はじめ原告団は裁判の目標を損害賠償だけでなく全ウィルス性肝炎患者が安心して生活するための治療体制・生活保障など総合施策に据えます。「2度と薬害を繰り返させない。」薬害肝炎被害の真相究明と薬害根絶のために、薬害が放置された経緯や、どの時点でどのようなことをしていれば薬害を防止できたのか検証を進めます。仙台を除く大阪・福岡・東京・名古屋の訴訟で国や製薬会社の責任を認める判決が続くも、新しく就任した舛添要一厚生労働大臣に原告団との対話を拒否され救済患者の線引きを突きつけられた美智子はじめ原告団は、福田康夫総理に「一律救済」の政治決断を求めます。5年の歳月をかけて闘った訴訟も世論の後押しを受け「薬害肝炎被害者救済法」が成立。美智子は国との基本合意に調印後、首相官邸で福田首相に面会します。「私たちは頂上に上ることができましたが、これから先多くの人が登れるように道幅を広くして欲しい」。翌年、感染原因を問わない「肝炎対策基本法」が制定。2020年には医薬品行政を監視する第三者組織「医薬品等行政評価・監視委員会」が厚生労働省に設置されます。美智子は薬害肝炎原告団代表を浅倉美津子に譲ると、訴訟活動の傍ら九州大学院で学びながら続けた研究を「私の幼児教育政策論」として出版します。

-薬害肝炎全国原告団サイト
-『薬害肝炎裁判史』(薬害肝炎全国弁護団 編 / 日本評論社2012年)
-『いのちの歌 薬害肝炎、たたかいの軌跡』(山口美智子 毎日新聞社2010年)
-『僕の出産で母は感染した 母の本当の笑顔が見たい』(RKB毎日放送2008年)

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