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Happy Women's Map 北海道函館市 元祖子役・フリー女優第一号 高峰 秀子 女史 / Japan’s First Child Actor and Freelance Actress, Ms. Hideko Takamine

-松竹 / Syotiku

「結婚だけは清潔にやりたかった」
"I just wanted to keep marriage pure."

高峰 秀子(本名 平山 秀子)女史
Ms. Hideko Takamine / Ms. Hedeko Hirayama 
1924 - 2010 
北海道函館市若松町大手町 生誕
Born in Wakamatsu-tyo, Hakodate-city, Hokkai-do

高峰秀子女史は日本初の子役またフリー女優第一号です。5歳から50年に渡ってたくさんの映画界の養父母に育てられながら、日本初の総天然色映画はじめ300本を超える作品に出演しました。ギャラは当時の首相・吉田茂の月給の25倍。女優引退後はエッセイストとして活躍しました。
Hideko Takamine is the first pioneering child actor and freelance actress in Japan. From the age of 5 and over the course of 50 years, she was nurtured by numerous "adoptive parents" in the film industry, all while appearing in well over 300 films, including Japan's first full-color movie. Her earnings were 25 times the monthly salary of then-Prime Minister Shigeru Yoshida. After retiring from acting, she had a successful career as an essayist.

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「元祖子役アイドル」
 秀子は1924年(大正13年)北海道函館市音羽町(現在の若松町大手町)に蕎麦屋料亭・劇場・カフェなどを経営する裕福な地主のもと5人きょうだいとして生まれます。4歳の時に母親が結核で亡くなり、葬儀の翌日に父の妹・志げの養女となって東京に移り住みます。志げは17歳の時に函館に来た活動弁士・荻野市治と駆け落ちして結婚、高峰秀子の名で女活弁士になっていました。まもなく養父・市治は旅回りの一座の興行ブローカーとなって家には滅多に帰らず、内職の針仕事で生計を立てる養母・志げとは母一人子一人の生活をはじめます。5歳のある日、養父に連れられて蒲田撮影所を見学に行き、野村芳亭監督の『母』の子役オーディションに飛び入り参加、養母・志げの芸名である高峰秀子で出演を果たします。作品は大ヒット、秀子は松竹に入社します。初任給は35円で家計は苦しく、養母は六畳一間のアパートで人形の着物を縫う内職をしたり、同じアパートに住む大学生の賄いをして暮らしの足しにします。人気子役となった秀子は、毎日のように養母と一緒に撮影所通いをはじめ、蒲田の尋常小学校に入学するも、地方ロケや徹夜の撮影でほとんど学校には通えません。そんな中でも、担任の指田先生は2~3冊の子ども雑誌を手渡しに駆け付けてくれます。

「アイドル」 
 秀子は共演する監督・俳優するからことごとく可愛がられます。外国製の玩具をプレゼントされたり、洋食屋でご馳走になったり、旅館また別荘に招待されて入浴また夕食を一緒にしたり、運転手を従えて郊外にドライブや動物園に出かけたり、養子に望まれることもしばしば。10歳の秀子は流行歌手・東海林太郎に「歌とピアノをみっちり仕込む」と説得され、志げと東海林家に移り住みます。次第に溺愛され地方公演先まで連れ回され、レッスン・志げ・撮影所から遠ざかります。耐えかねた秀子は志げを促して東海林家を出ます。12歳の秀子は五所平之助監督のメロドラマ『新道』に田中絹代演じるヒロインの妹役に抜擢。絹代の「絹代御殿」と呼ばれる鎌倉の豪邸に泊まり込んで撮影所通いをします。学校に通いたい13歳の秀子は一計を案じます。宝塚歌劇団入りを女優・水谷八重子に相談、宝塚音楽学校校長の小林一三から直々に無試験での入学許可を取り付けます。すると、東宝映画社長の植村泰二は月給100円・邸宅・女学校進学を提示。秀子は嬉々として東宝映画に移籍して御茶ノ水の文化学院に入学を果たします。すると養母・志げは函館大火で破産した実父一家を東京へ呼び寄せ、秀子の肩に9人の生活がのしかかります。東宝ではアイドルとしてますます売れっ子となるも、文化学院は入学1年半にして退学を余儀なくされます。

「フリー女優第1号」
 
16歳の秀子は豊田四郎監督の『小島の春』でハンセン病患者を演じた杉村春子に衝撃を受け、演技と発声を学び直します。嘉次郎監督の『馬』に主演、3年を費やす撮影中に31歳の助監督・黒澤明と恋愛スキャンダルを起こすも、養母・志げはじめ所属会社に大反対され引き離されます。戦時中は千葉・館山の航空隊など慰問講演に赴き、敗戦直後、アーニー・パイル劇場で占領軍相手の慰問公演に出演します。まもなく労働組合が盛んになった東宝の資本家・経営者らは共産主義者を追放し始め、「創造の自由」を求める日本映画演劇労働組合2500名と、アメリカ占領軍の飛行機3機・戦車7台・騎兵一個中隊と警察庁のトラック20台・警官2000名が対峙します。秀子は組合を脱退、他の脱退者らを引き連れ新東宝映画製作所の専属となります。25歳のとき、主演した島耕二監督『銀座カンカン娘』で歌ったレコードは50万枚の大ヒット。阿部監督の『細雪』で花井蘭子、轟夕起子、山根寿子に続く末娘役を演じ、原作者の谷崎潤一郎と交流を始めます。その頃、東宝時代から交際していた20歳年上のプロデューサーで会社の重役による後援会費の使い込みと不貞が発覚、秀子は新東宝映画製作所を退社してフリー女優第1号となります。「初めは父親のように頼りがいのある存在だった。ハッと気がついたとき、彼が周到に計算した色と欲との二筋道を私は夢遊病者のように歩きはじめていた。」

「日本初の芸能人の結婚記者会見」
 26歳の時に日本初の総天然色映画で木下惠介監督『カルメン故郷に帰る』に主演。留学生としてフランスに渡り、6ヶ月間パリに滞在します。帰国後、木下惠介監督『二十四の瞳』に出演、当時の女優賞を独占します。31歳の時に木下の助監督・松山善三との婚約を発表。木下が自ら報道各社に電話をして日本で初めて芸能界の結婚記者会見を開きます。夫・松山善三の監督デビュー作『名もなく貧しく美しく』はじめ『われ一粒の麦なれど』『六條ゆきやま紬』などに主演。40歳以降は映画出演が減少、テレビドラマにも出演するようになります。51歳で自伝を出版、養母・志げを「ブタ」と罵り、同じ境遇ながらも家庭教師をつけてもらえた美空ひばりを羨む心境を吐露します。親族による養母・志げの「拉致」事件に巻き込まれまながら、木下監督『衝動殺人 息子よ』に八千草薫の代役出演を最後に、54歳で女優業を引退。引退後はエッセイストとして活動しながら86歳で逝去。「高峰秀子と松山秀子では満足できなくなった。素人に還る。」

-松竹 Syotiku
-国立映画アーカイブ National Film Archive of Japan
-『わたしの渡世日記 上下』高峰秀子 朝日新聞社1976年

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