『ギターの先生⑭』
第14練習 秘密とワタシと前髪命
衝撃的なマキオの霊能体質の発見に、我々はひどく動揺した。
少し間が空いてから、089号室はそれまでの和やかな雰囲気から一瞬にして恐怖のどん底に叩き込まれることになった(ワタシとミドリ以外)。
「なになになになになになになに!」
マキオは腰を抜かしたままでミドリの方をまだ見ている。
ミドリは自分の顔を指さして、「視えてるんだ?」とマキオに尋ねている。
「ちょっと待って。いないの?この子、いないの?」
みんなに聞こうとしたようだけれど、ワタシ以外の人間はもうとっくに部屋の外にいて、窓ガラスから覗いている。
「いないわけじゃないんです。でも、いるかって言われるといないのかしら。この世にはいないって言えばいいのかしら。でもここにいるし、どう説明するのがしっくりくるのか。。。」
ワタシにとっては今更だったので、ミドリのことを半分人間のように扱っていたために難しかった。
「え、コメコちゃんは喋れるの?この子と」
「この子じゃないよ、ミドリです」
「ミドリ!」
マキオがそう叫んだすぐあとに、ドアが開いた。そこからは、神妙な面持ちの店長が入って来た。
手にシュウマイを持っているアルバイトの男の子を盾にしながら、だ。
「ミドリって、あなた言いました?」
「そう。言った。ミドリって名前だと自己紹介したよ。この、制服姿の男の子がたった今!」
店長はどんどん目に涙を溜めていった。
「ミドリさんが、いるのですね」
今から8年前。
店長は目の前で事故を目撃した。
駆け寄ったら雨に打たれたミドリの頭からは血がたくさん流れて、慌てて店に戻ってミドリの仲間を呼んで、震える手で119番通報した。
仲間たちが泣き叫んでも聞こえないほどの、ひどい通り雨だった。
それなのに救急車とパトカーが来た時にはもう雨はすっかり上がり、山裾が見える向こう側には虹がくっきりと浮かび上がっていたのだそうだ。
「これで合点がいきました。だからコメコさんはいつも1人でいるのに誰かといるように喋っていたのですね」
覗いていたものね、店長はいつも。
落ち着いた様子を察知して、部屋の外にいたおんぷと殿村くんも入って来た。
「こういう場合、どうしたらいい?」
ミドリはみんなに注目されてワタシに助けを求めてきた。とっても照れて恐縮しているようだった。
「バレちゃったね。これで全部」
ワタシの秘密。いや、ワタシとミドリの秘密。
全然怖くない心霊現象。
「なるほど。ママがギター楽しそうだったのはこういう理由があったのね。マキオ先生だけでなくて、ミドリちゃんオバケと会うことも楽しみってわけか。ここにいるんでしょ?私も見たい!ミドリちゃんオバケ。この辺?ここ?」
今日の帰り道は久しぶりにおんぷと2人。
「殿村君と帰ってくれば?」と言うと、「たまにはママと帰る」とおんぷは言った。
商店街を抜けて線路沿いの道。
帰宅途中の学生や会社員、塾のリュックを背負った子どもたちなどが思い思いに歩いている。
うっすら星が瞬いて、どこかの家の夕飯のいい香りが鼻をくすぐってくる。
「あ、カレーのいい匂い!カレーかあ。でも焼うどんとシュウマイのお土産にもらったしねー」
そう。さっきいろんなことがあり過ぎて、せっかくカラオケ店長の奥様が腕によりをかけて作ってくれた料理を、全員が食べずに終わってしまったのだ。
「もし焼うどん食べてシュウマイ食べて、さらに食べられそうなら、カレー作ろうか?」
おんぷは自分のお腹を触って、
「えー、そんなに食べたらここから家まで全速力で帰ってもカロリー消費できないよー。我慢です!」
と走るフリをしておどけて見せた。
隣りにいる高校生のおんぷ。
当たり前に、毎日これからも一緒にいると勝手に思っている娘のおんぷ。
もし万が一のことがあったらと、ミドリを思い出してギュッと手をつないだ。
ギュッと握り返してきた。
「何ママ?おセンチ?」
特急列車の警笛が鳴り、ものすごい轟音と風圧が2人の髪の毛を上に持ち上げた。
おんぷは、命である『前髪』を必死で押さえて、ワタシはそれを見て笑った。
「ママは、なんでパパと離婚しないの?」
前を向いたままで、おんぷは聞いてきた。
そう、どうして離婚しないのだろう。ワタシでも自分の下した判断がよくわからないでいたので、その通りだと思った。
昔だったら、浮気なんてことは絶対に許さなかっただろう。
勧善懲悪。そんな言葉が好きだったし。
「本当ね。なんでワタシ、パパと離婚しないのだろうか」
「質問を質問で返すかい?」
歩きながらもう一度考えてみた。これまでもたくさん考えたけれど、まだ考え足りていないのかもしれない。
答えを出すって、若い時からこんなに難しかったっけ。
勢い、というものをとっくにどこかに捨ててしまっていることに気づいた。
カラスが「カー」と鳴いた。
今度は通勤快速が通った。
横目で見える電車内には、くたびれた顔のたくさんの人々が乗っている。
風圧がまたワタシたちの髪の毛を上へと持ち上げた。
おんぷはまた、持ち上げられた前髪を必死で押さえた。
「前髪を、守りたいのよ」
おんぷがワタシを見る。
「ん?意味わかんないですけどー?」
「前髪が大事なのよ」
そう、意味はわからない。ただ、家族の「前髪」であるおんぷを守りたい。
これから吹くであろういろんな種類の風から。
だからまだ今は離婚しない。不倫を許したわけではないし、特に離婚しない理由はない。
ワタシはパパを目から血が出るほど殴ったっていいし(捕まる)、額がこすれるほど土下座させたっていい(パワハラ)。
タイミングではないから離婚しないだけかもしれないし、この先気持ちが変わるかもしれない。
パパのことが好きなのか嫌いなのかも、恋する乙女の時と同じ気持ちなのかそうでないのかも今となってはもうわからない。
ただ、ワタシと一緒に今おんぷを守れるのはパパなのだと、勝手に思っているだけだ。
「あ」
とおんぷが立ち止る。
目の前にパパがいた。話しながら2人で歩いて、隣の駅から約1.5キロメートルのウォーキング。
最寄りの駅前の古ぼけてるけれどオシャレな喫茶店の前。
頬が痩せて、少し老けたパパが荷物を持って立ち尽くしていた。
その姿はまるで、大冒険を終えて宝物も持ち帰れなかったしドラゴンも倒せなかった勇者のように疲れ切っている。
身の置き所がないような、可哀そうな勇者。
「老けた」
ワタシはまた超特急で口に出していた。
一瞬何かを我慢するように顔をしかめてパパは下を向いた。
「そう、だね。老けたよ」
顔をあげたパパが、少しだけ笑った。目が光っている。
まさかそんなセリフが出てくるとは思っていなかったのだろう。
おんぷも笑っていた。
「少し寄ってく?」
ワタシは喫茶店を指さす。
すぐにお城(家)に連れて帰るまでにはいかないが、大冒険の土産話くらいはとりあえず聞いてやろうじゃないか。
どんな道のりで、どんな気持ちでどんな武器を使ってどんな戦い方を考えて、どんな反省をしてどんな人を想って、どんな人を傷つけてどんなことを言い訳しようとして。
右手に持ったビニール袋の焼うどんとシュウマイをエコバッグに入れて
店に入った。
店にはお客は誰もいない。
ワタシたち家族3人だけの貸し切りだ。
おんぷはワタシの隣りに座り、ワタシの目の前にパパ。いや、もどるさん。
もどるさん、なんて、最後に呼んだのはいつ?
パパとママ。
それが名前になったかのように呼び合って早17年。
たまには名前で呼び合って、たまには手をつないだりして、たまには2人でデートにでも出かけていたら、違っていたのかもしれない。
勇者よ、まだ冒険はやり直せるかもしれない。
ひとりだと心もとないけれど、もし2人だったら?もし3人だったら?
きっと険しい道のりの冒険を、リスタートしてみる?
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