コロナ禍の東京を逃げ出して半年

私が持病の心臓病とコロナパニックでシフトがぐちゃぐちゃになって、過労と咳喘息で過疎の町である故郷に戻ってから半年。

予想通り、東京は今、とてもひどい状態となっている。あの時、帰郷を決意してなかったら、漏れなくひとり暮らしの部屋で感染して、自宅療養中にポックリは間違いなかっただろう。

しかし、故郷である過疎の町の暮らしが快適かと言えば、物価は東京なみに高いし、仕事の給料は東京の半分で、かかりつけ病院は片道1時間の所にある。Wワークのうえに認知の衰えた母と父との3人暮らし。

節約するため、髪は自分で切るし、服もカバンも親戚からもらったものばかり。

決して楽ではないが、コロナで失業し、感染力は5倍高く、致死率の高いデルタ株に翻弄されているオリンピック後の東京の飲食店の方々や、医療現場の日々を思えば、胸が痛む。

苦しくても、コロナの影響がほとんどないいまの生活を自分が選択したのだ。少なくとも感染者を隠ぺいする政府と企業のもとで、生きるよりかは地方自治体や地方の企業のほうが、しっかりしている。

75歳以上のワクチン接種率が6、7割を超え、どの県も若い人の感染者が相対的に増えている。ワクチン供給が追い付かないうえに、巣籠もり生活に抵抗するかのように、若い人の会食率は高い。

そもそも、外で食べないと食べるところなんてないし、まさかコロナだからお弁当を持ってひとり外で食べるという選択肢は東京にはないのだ。

実家に戻ると、思っていた以上に家が傷んでいて、換気扇は壊れてるし、雨戸は腐り落ちる寸前だし、姉たちに援助をお願いするのも現実的ではないように思えた。

父は脳梗塞と心筋梗塞を起こした割には元気だが、誤嚥肺炎をしょっちゅう起こしている。とろみを料理に足して飲み込みやすくするとか母に提案してみたが、もうそんなに長生きする為の努力は父自身が望んでいない。食欲も徐々に落ちてきている。もってあと5年くらいか。

父が亡くなったら、たちまち親子で生活保護生活になるのが見えている。

私は田舎に戻る時点で、生活保護を受ける覚悟はもうしている。しかし、母は泣いて嫌がるだろう。

家も手離さなければなくなるし、保険なども解約する必要があると言う。父が亡くなったらようやく長年の介護生活から解放されると思ったら、閉鎖的なこの町で生活保護を受けるなど、母は受け入れられないと思う。娘たちが仕送りをしてくれると思い込んでいる。

これからのアフターコロナの世界で、姉たちに援助をお願いする事自体、もう現実的ではない。姉たちだって、いきなり誰かが働けなくなるリスクと隣り合わせで生きているのだ。

父が死んだら、たちまち貧困層に陥るのが見えている。父の障がい年金がなくなったら、もう本当にどうにもならない。

私は自分の荷物を片付け始めた。そして、
来月は障がい者手帳の申請をするための病院予約がある。使える制度は全て使いこなさねばならない。

もはや生き残る為に、恥はとうに東京に捨ててきた。父も母も亡くなったら、この町ごと捨てる日もくると思う。その時は、きっと今の時間を懐かしく思い出すのだろう。