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未来の話(サキかアトか)

 暇な時は色々なことを考える。いや考える時間がある。もちろん新しいアイデアを形にする作業をしたり、何かの勉強をしたり本を読んだりもする。それでも暇なのでニュースアプリやマガジンの記事のお知らせなども読んでしまう。好きなので占い系の記事などもよく読む。干支、生まれ年、誕生日、星座などなどいろいろなものにあふれている。大抵は女性向けだが、12や9のカテゴリーに分かれて運勢が決まるなら、同じ誕生日のひとは同じ運命のはずじゃなきゃおかしい!とか言う気はなくて、当たるも八卦当たらぬも八卦、として見るものだと思ってはいる。けれどここでまた時間があるのでふっと占いとはなんぞやと考えてしまう。予知能力? 昔ある人から、そういう能力には、過去が見える、未来が見える、未来を変えられる。というのがあって過去が見えるは割と多くて、未来が見えるもそこそこいるらしいが、未来が見えてかつ変えられるとなると、日本には3人しかいないと聞いたことがある。そう言う人間は時の政府が抑えるから一般の人は会えないなどといった、小説みたいな話を大真面目に話されたこともある。その話も面白いのだがそれはまたいつか書きたい。その3人が富士山の裾野に集まって地軸を曲げた話とかもいつかどこかで、、。とにかく私が生きているこの五十数年でも何度か占いブームがあった。相談する人の切羽詰まり具合で話が変わって来るので、ここで簡単に本当だとか嘘だとかの話をしたいわけではない。実際よく当たるという占いの人に、生き死にの相談をしている人がいるすぐ横で、浮気発覚を相談してる先輩もこの目でみているので、悩みは人によりけり。そして、繰り返されるブームが世相を反映してるのか、景気を反映しているのかとかは気になるが、こういうのはきっと研究してる偉い先生がいるだろうからそちらに任せて、あくまで個人的に感じるという話。
 昭和の日本映画中でも庶民喜劇を見ると占い師が登場することが多い。主人公が街角の占い師に見てもらうとか、町内の八卦見のおっさんに助言を受ける、といったシーンが当たり前のように使われていた。ギャグとして嘘を前提で描かれていたり、その占いが物語の進行に大きく関わっていったり、と扱いは様々だが、何しろ占いや祈祷は生活に溶け込んで当たり前のように描かれていることが多かった。ちょっとした験担ぎだったり、恋の悩みなどを真剣に占ってもらう姿が多く見られたのだ。今の映画で主人公が占い師に自分の進む道をアドバイス受けたりしたら、客は興醒めしてしまうだろうなと思いながら見ている。この違いはなんだろう。今でも占い師は毎日なんらかのTVで見かけるしその連載記事も多いのに。全く興味ない人は別として扱う感覚が変わったのだろうか。映画やドラマに本当か嘘かなんて証明できないものを出すとリアリティが下がるからだろうか、主人公が自力で切り開く未来の方が、すでに決まった未来ではなく変えていけると信じる方が求められているのかもしれないなどと思ったりする。

 タイムリープもので、未来は無限のパターンがあって、過去を変えても望む未来にたどり着けないと言う話を、アニメや映画で最近よく見かける。それらを見て考えるのだが、占いの未来もそう言う事なのではないか、無数のある未来の中で占い師が見た未来はその一つ、ある占いでは最悪な未来。別の占いでは最高の未来。どちらも可能性としての未来。現実の事象として証明しようがないからどちらにしても仮定の話。そこでふっと思ったのは、どの未来に進んでいくかは自分で少しは選べるのではないか、いや選ぶと言うより寄せて行けるのではないか、ということ。誰でも自分の思い描く未来はあるかもしれないが、それを強くイメージすればするほど、その未来に辿り着きやすくなる。知り合いの某社長が若い頃に自分の未来の年表を作り、この歳でこの車を買う、この歳でこんな人たちと仕事をしている、といった未来の年表を写真付きで作りアパートの壁に貼っていた。その社長は当時は貧乏なDJだったが次々とそれを年表に近い形で実現していき、その年表とは業界は違うが上場企業の社長になった。すごいことだ。でもそうは言っても普通の人は漠然と考えることは出来ても、そこまで詳細に理想の未来をイメージすることはなかなか難しい。こんな未来あんな未来と夢想する人はたくさんいるだろうが、本当にそうなると信じきって考える人は少ないだろう。そうなったらいいなぁ程度の感じで、そこから具体的に考えれば考えるほど、この点で私には無理、これは持ってないし、こんなことは自分には出来ないと夢想した未来を手放して行くのだろう。でも占いに言われた良い未来ならどうだろう、想像していなかったけど、人に言われた未来は自分の夢想よりも信じやすい、という人は多いのではないだろうか。逆の考えの人、言われたらよけい疑うと言う人ももちろん多いと思う。なので当たるとか当たらないとかそういうことを言いたいわけでなく、未来が決まっておらず不確定と仮定するならば、より良い未来に辿り着くために、ここまで沢山ある占いを利用してもいいのではないか。特に最近の占いを読むと、こんな感じで幸運期が来るけど、そこでこう言ったことに気をつけないと運気を逃すよ。的なことが書かれていることが多い。それはそうならなかった時の、気をつけなかったあなたが悪い。気の付け方が甘かったからそうならなかった、というための予防線のようにも見えるが、大抵は自分や周りのために良いアドバイスが多いので、それを実践してみてもなんの損もないと思う。それで少しでも周りの人や世の中のために、少しでも良い存在になれるのなら良い話ではないだろうか。少し自己啓発入ってしまったが、所詮人間は感情に翻弄される生き物なのだから、そんなことも感情を気持ちの良い方向へ向かわせる一つのやり方かではないのかと。

 未来とは明日のことだ。WEBでとある対談を読んだ時に、未来を表す言葉の話が出ていて興味を持った。後先の話。この後と先はそれぞれ未来でもあり過去でもある。先は先頭というくらいで、前をイメージする言葉だ。未来のを指すのに適切な言葉の印象を受ける、よく「この先の未来へ!」的なコピーを目にするだろう。でも先日となると過去の話で後日は未来。後世は未来。でも感覚的に前に進んで行くのが未来ならば後ろは過去になるのではないか。フランスの詩人、ポール・ヴァレリーが「湖に浮かべたボートを漕ぐように人は後ろ向きで未来へ入っていく」と読んでいる。人は過ごしてきた過去は見えるが、先の未来は見えないということを表しているのだろう。後ろ(過去)を見ることによって見えない未来へ進む方向を間違えないように見直しているのかもしれない。そしてそこにも時代による考え方の変化があるのではないかと思う。水路を使って移動する時代から車を使って移動する時代になり、人は前に向かって進むようになったのだ。今より色々な情報も手に出来なかった時代では、未来は見えない不安なものだった。だからこそ過去を参考に進んで行くしかなかった。日本の歴史学者の勝俣鎮夫さんも戦国時代までの人々は未来は未だ来ずであって見えないもの。過ごしてきた過去は見えるだから、後身で見えない未来に飛び込んで行くしかなかった、という風なことを書かれている。現代では色々な技術も情報もあり、未来を予測することが昔よりは容易くなった、日食や彗星に世界の終わりを感じて怯える必要もなくなった。車に例えたのは正しいかわからないが、前(先)を見ながら未来に向かって行くように変化したのだ。高村光太郎は「僕の前に道はない、僕の後ろに道はできる」と書いているがこのあたりの時代には、すでに人々は前に向かって進もうとしていたのだろう。その違いが後とか先という言葉を生みそこから受ける印象が変化しているのかもしれない。捉え方は変わっても、それでも未来のことはわからない。だから人は備えをしたり準備したり、先人の教えを参考にしたり、占いをしたりするのだろう。今これを書いている瞬間の自分。過去にどんな選択肢をしていても、間違ってしまったと後悔しても、生きてここにいるという選択肢が一番正しかったのだと言われたことがある。わかったようなわかんないような言葉だが(次の暇な時間に考える。)、誰かのボートの引き波でウェイクボードを楽しむのもありかもしれない。ほっておいても明日は来る。もう来なくていいよと思ってもどんどんやって来る。仕事の締め切りも迫って来る。暇なようで暇じゃないけど時間はけっこうあるので、少しでもより良き未来に寄せていくために、良いこと言われた占いやイメージを信じて準備をすれば、たとえそうならなかったとしても、周りの人にも少しは貢献できる可能性が上がる。つまらない未来に絶望してもどうせそうなるかもわからないんだから、楽しいほうの未来を選ぼう。
 The Blue Heartsが歌っていた。「未来は僕らの手の中。」最近の歌にもそういう歌詞あるかな、子供たちに聞いてみよう。


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