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小説「灰色ポイズン」その11-美奈子先生の診察

美菜子先生は、まず内科の診察のように聴診器を胸や背中に当てたり、血圧を測ったり、下瞼を下げたりして一通りの身体的な診察を行った。

「少し血圧が低いようだけど、大したことはないわ。許容範囲ね。それより、少し貧血気味かも。念のために、明日の朝、採血して検査しましょう。」
そう言うと、聴診器を外して無造作に白衣の左ポケットに突っ込んだ。
それから、白衣の裾を少し持ち上げて「失礼」と言って胡座をかいて床に座った。

「さてと」
美菜子先生はもったいをつけるかのようにゆっくりとそう言って、私の顔を見るような見ないような曖昧な視線を落とした。
私は美菜子先生の唇を見つめて、次の言葉を待った。

「さあ、少しお話を聞かせていただこうかな。私が質問することに答えてもらったりするけど、話したくないことはパスして構わないわ」

私は軽くうなずいた。

「何から話してもらおうかしら?ね、森野さん、まず一番に聞いてもらいたいこととかある?」

私は何から話せばいいのかわからなくて、顔をしかめた。

「話したいことはもちろんあるんだけど、今の私には何をどう話せばいいのかわからないの。困ったわ」

私の言葉に美菜子先生は微笑んだ。
それはまるで冬の寒さの中にぽっと現れた春の陽だまりのような笑顔だった。

「オッケー。大丈夫よ。曲がりなりにも私は話を聞くプロだから、心配しないでいいわよ。こちらから質問させてもらうから、ゆっくり答えてね」

美菜子先生の声は、草原を撫でていく優しい風のようだ。その声は心に静かに響く。

私は数秒前よりもこれから話すことに少し勇気を持てる気がした。
すごい!精神科医って皆んなこんな風に話すの...?
そして、言葉が紡がれるたびに、心の中のもやもやが少しずつ晴れていくようだった。

家族構成や既往歴などは待合室で問診票に記入したから、ここでは聞かれないはず。おそらく、最初に何に困っているのか、何をしてほしくてこの精神科の病院を受診しようと思ったのか、そんなことを聞かれるのだろう。それは、私が治療院の新患さんに聞くようなことだ。ただ一つ違うのは、その困りごとが肉体的なものではなく、主に精神的なものであるという点だけ。

東洋医学の鍼灸治療でも精神面のことを聞く。漢方的な診断では、喜怒哀楽と臓器のつながりを見逃すことはできない。例えば、腎臓の機能は恐れと深い関係がある。そんなことを考えながら、私は不安と希望が入り混じる気持ちで美菜子先生を見つめていた。
そして、これから始まろうとしている未知の世界に心臓が高鳴るのを感じた。

私は美菜子先生が次に口を開く数秒間の間に、一気に思考を巡らせた。普段はこんなに早く回らないはずの頭が忙しい。きっと緊張してアドレナリンが出まくっているのだろう。もっともらしいことを考えながら、ため息に近い息を吐いた。

「森野さん、緊張してるの?大丈夫よ。自分で言うのもなんだけど、私は『仏の美菜子先生』と言われるくらいに優しいのよ。信じられないかもしれないけどね。あはは」

美菜子先生はそう言って再び笑った。
それは、まるで太陽の光が差し込むように、私の心を温める。
彼女の笑顔に包まれて不思議な安心感が広がった。
まるで長い間閉ざされていた心の扉が少しずつ開いていくように思えた。

と同時に、私は突然不思議な感覚に襲われた。
まるでタイムスリップしたかのようだった。
中学生の頃の美菜子先生の姿が脳裏に浮かんだのだ。
この人はなんて屈託なく、コロコロと、しかもさっぱりと豪快に笑うんだろう。

昔の記憶が鮮明に蘇る。見かけの女の子らしさとは裏腹に、ボーイッシュな身のこなしと豪快な笑い方。
まるで好きな映画の一場面のように覚えている。
そう私は知っている。

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