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小説「灰色ポイズン」その17-掛け布団と院長の方針 その14の続き

由流里病院の個室での夜は長くなりそうだった。
耳を澄ますと遠くでフクロウみたいな鳥の鳴き声が聞こえてくる。
日本ではフクロウは「不苦労」ともいわれ、苦労が無いとか、「福朗」で、福が来て喜ぶとか縁起の良い鳥だとされるし、ローマ神話では知恵と工芸の女神「ミネルヴァ」の使いがフクロウとされ、その話が伝えられた欧米では、フクロウは英知の象徴とされている。
とこんな精神科病院の個室でどうでもいいような話を自分に言い聞かせるように頭の中で反芻しているのは私がたとえ縁起の良い鳥だと知っていてもそのフクロウの鳴き声が苦手だからだ。
『フクロウの鳴き声=夜』という連想を思い浮かべてしまうからだった。

私は、このツェレとか呼ばれる殺風景な部屋で美菜子先生と夕食を食べたので今から眠りにつくのだ。
昼間あれだけぐっすりと眠ってしまったのだから、果たして眠れるだろうか...。眠れなかったらこの気の遠くなるような長い時間をどうやって過ごしたらいいのか...。
「That is the question.あー等々ハムレットになってしまった...」

私は少し不安になってきた。そして段々と胸の脈打つ鼓動を感じながらマットレスの上に座っていた。
するとその時だった、何やら足音が聞こえた気がした。今、何時なのかしら。私は入り口に埋め込んである時計を見た。
うん、まだ10時。いつもならまだ治療院でカルテの整理をしている頃だ。眠れるはずがない。がしかし、眠れないのは困る。

いや、正確に言うと、眠れないこと自体が「困る」のではなく、眠れない時に「考えたり」「嫌な出来事を思い出したり」することが辛いのだ。そのようなことさえなければ、疲れはするだろうけれど、やることがあるなら平気だ。

そういう取り留めもないことをぐるぐると考え始めた時、部屋の外のドアを開ける音がした。
この病院は不思議なことに数年前に建て替えていて近代的な作りなのに、ドアの鍵だけは昔のドラマに出てくるような銀色の重たそうな鍵だった。そしてノックの音が聞こえ、鍵を開けて入ってきたのは美菜子先生だった。

「あ、美菜子さん、あ、いえ美菜子先生。ごめんなさい。私ったらついタメ口というか、つい出てしまって」と私は言った。美菜子先生は一瞬だけ笑って「あら、呼び方なんてなんだってかまわないわよ。ここでは私達以外には誰も聞いてんなんかいないし。それにね、ここに古くから通っている患者さんなんて私のことなんて呼んでいると思う?」と言った。私はとっさのことで「思いつかないわ」と首を左右に振った。「それがね、嬢ちゃん先生なのよ。やんなるわ。いつまでも人を子ども扱いして。ったく、小さい頃のことを知っている人がいるってやりづらいったらありゃしないの」と顔をしかめて本当に嫌そうに言った。

それから美菜子先生は、私の方を見てゆっくりとマットレスの方に寄って座った。その途端だった美菜子先生の後ろから突然もう一人女性がヌーっと現れたのだ
その女性は笑いをこらえた、古臭い言い方をすると「ニガ虫を潰したような」表情をしていた。
私は、美菜子先生が立っていたから、その後ろにいた夜勤のナースに気づかなかったのだった。
ナースは一呼吸するとナーススマイルで
「森野さん、こんばんは。気分はいかがですか?」
と典型的でまるで医療系ドラマに出てくるようなナースの質問をしてきた。私は何だか気まずい気持ちになって「ええ、まあ」とだけ言った。そう、思い切り低い声で。

すると美菜子先生が横から「そんな答えじゃわからないわよねえ」とからかうように私の後に続けて言った。そして更に追い打ちをかけるように「ねえ、吉野ちゃん」とそのナースに同意を求めたのだった。
それからお決まりのようにナースの吉野さんを紹介してくれた。

結局、美菜子先生が何をしにきたかという説明会が始まり、私の気まずさはどこか天井の上に登って消えていったようだった。

美菜子先生の説明はこうだった。
さすがに夜これから眠るにあたって掛け布団の一つもかけて寝てもらいたいと院長先生に(と言っても彼女の父親だが)相談にしてみたとのことだった。

院長先生の答えは私にとっては良いような悪いようなものだったが、拒否するほどのことでもなかった。
それは、私のいる個室で掛け布団の使用は精神疾患の急性期の場合、それを引き裂いて希死念慮の最低最悪の結果を招くおそれがあるということ。それで、そういう理由から院長としては、掛け布団の使用は許可しがたいとのことだった。
私は、そのことについて医療従事者としてはいたしかたないというのもわかっているし、感謝している。

要するに、結果を簡単に言ってしまうと『今日の昼間に錯乱して一応緊急入院となった私には布団をかけて眠ってもらうわけにはいかない』ということだった。
それでも掛け布団を使用するならしっかりと薬の力を借りて寝ていただこう、ということだったらしい。

私はナースの吉野さんの持っている銀色に光るトレーの中身をちら見した。アルコール消毒綿の入った茶色のガラス瓶と小さい注射器と、まるでおもちゃのボーリングのピンの形をしたようなアンプルが見えた。私はできれば飲み薬にしてもらえないかと質問しようと思って口をもごもごさせた。

「あの...あの...薬を飲むってわけにはいきませんか」
と聞くだけ無駄な抵抗はやめろ!みたいな言葉を色々と頭の中で思い浮かべながらもそれだけは、やっと言った。
しかし、やはり頭に浮かんだ通りに、私のささやかな抵抗は無駄にすぐに終わったのだった。
それは飲み薬が今夜の私にどのように効くかがはっきりしないということ。それ故に大事をとって血管に薬液を直接入れるとのこと。
なーんだ、それって「注射をします」を柔らかいティッシュかなんかにに包んでくれただけだ。すぐにそのティッシュは溶けて流れてしまうけども。

私は今から受ける注射で急に眠気が来るかもしれないと思って念のためにもう一度部屋の隅っこにあるトイレに行かせてもらって用を足した。
さすがに他人がいると出るものも出ないので、その時だけは二人に出ていってもらった。
そして、美菜子先生に眠るための薬を注射してもらって、それから、めでたく掛け布団もかけて横になった。
段々と、ぼんやりしてきた。そして、少しずつ意識が遠のき始めた私に向かって美菜子先生が何かを言った。それから美菜子先生は私の右手首で脈を測った。
けれど残念ながら、その時の私には彼女の声は届かなくて意味をなさなかった。それから美菜子先生の指示で吉野ナースが血圧を測った。

一言だけわかった言葉は
「おやすみなさい。ぐっすり眠ってね。また明日の朝会いましょうね」
という美菜子先生のやさしい声のおやすみの挨拶だけだった。

その夜の私は、おそらく何年ぶりかの深い眠りに落ちていった。消してはもらえない薄明かりの部屋で。

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