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存在の肯定と、生きる術。

子供の成長には、母親的な愛情と父親的な愛情が必要。と大まかに考えていました。

シングルマザー(ファーザー)で、母親的・父親的な役割を一人で演じ分ける場合もあるでしょう。

もちろん、生命が誕生するためには卵子と精子の両方が必要で、赤ちゃんを産めるのは女性だけです。
その一方で、子供を育てることに関しては、母親「的」と父親「的」というだけで性別そのものはあまり関係なく、血がつながっているかさえ本質ではないのかもしれません。

そこで、母親的・父親的という言葉を取り払って、子供の成長に何が必要なのか、改めて考えてみると・・・

〇 存在の(全)肯定
〇 生きるすべを教える

この2つに集約されるのかな、というのが現時点の仮説でございます。

役に立つから認める、役に立たないから認めない。
都合が良いから認める、都合が悪いから認めない。
というのは、オトナの社会ではありがちなこと。

でも、何の役にも立たない幼子おさなごのうちに、存在をまるごと肯定される。君が生まれてきてくれて嬉しい、生きていてくれて嬉しいよ、と誰かが態度で示してくれる。そんな体験が必要なんだと強く思うのです。
そうした肯定される体験が欠落していても、体は大きくなっていく。
ですが、心からの肯定体験を後から補うことは不可能ではないにせよ、時間と手間がかかるいばらの道となってしまいます。

存在をまるごと肯定されたら心は満たされますが、
人間は何らかの手段で、文字通り「食っていく」必要があります。

食っていくためには、若さや体力だけでは不十分で、技術や知識を身につけることが必要不可欠です。それはきっと、古くは狩猟採集期から、現代の情報革命期に至るまで、カタチは変われど本質は同じでありましょう。

人間は本能だけで狩りができるようには設計されていません。まして、現代の情報革命期では、必要とされる専門知識の量はどんどん増えています。

生きるすべを教わる。
身につけてなんとか生きていけるようになったら、
今度は誰かに生きるすべを教えていく。

そうしたささやかな循環が、私たちの生活をつないできたのでしょう。

私の場合、子供としての立場では、実の両親との関係はかつて厳しいものがありました。
しかし、家の外で、節目節目で親代わりのような人たちに運良く助けられ、ここまでやってこれたように思います。
そして今は0歳児の父親として、赤ちゃんの存在をまるごと肯定できるようでありたい、と深く願っています。

生きるすべを教えることに関しては、父親と母親だけで足りるものではありません。すでに保育園にお世話になっていますし、将来的には、何らかの分野で師匠にあたる人のご尽力も不可欠でありましょう。

また、かつて私が、親代わりのような人たちに助けて頂いたぶんは、生きている間に何らかの形で社会に還元できないかな、と妄想しております。


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