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二年目の偲ぶ春  ~過去と未来と~


昨年も記事にしたのだけれど、3月の土曜日にまた、亡くなった友人のための集まりをしてきた。


彼女が逝って、もうすぐ丸二年。

仏教でいうと三回忌になる。

葬儀は無宗教で散骨という形だったので、仏教の形式をとるのが適切かどうかはわからないのだけれど、散骨の前にしばらくご遺骨を預かってもらっていたのもお寺だし、彼女自身が、知人に頼んで戒名もつけてもらっていたので、なんとなく、仏教のしきたりで動いてしまうのはある。

昨年はスケジュールの関係で、少し命日とずれてしまったのだけれど、今年は命日の前に設定できた。

今の時期は梅が終わり、早めの桜が咲きだして、他の花々も咲きだす時期なのだけれど、亡くなる前の彼女に向けて、毎日目についた花の写真を送っていたことを思い出す。

たぶんもう時間がないということで、最後のお別れをさせてもらったのも今頃だ。

この日は寒いけれど、とてもよく晴れていて、晴れ女だった彼女にふさわしい日だった。

1年ぶりで会うけれど、他のお二人は相変わらず、穏やかで、気持ちよく、彼女の話も、それ以外の話もどんどん広がっていく。

特にお料理の先生であるおひとりは会話に入りつつ手際よく料理をしながら、食事もするという、私にとっては離れ業を軽々とやってみせてくれる。

その様子は彼女を彷彿とさせ、どうして、彼女と仲がよかったのか、とてもよくわかる。

また彼女と一番付き合いの長い、弁護士の秘書をしている方は、さりげない気配りと母のような慈愛に満ちた笑顔が素敵な方で、これまた彼女が長年のつきあいの上で、最後を託したのがよくわかる。

このお二人と一緒にいる自分がよくわからないというか、そもそもとっても雑な自分のどこを彼女が気に入ってくれたのかはいまだに不思議なのだけれど、お二人からはなんとなくわかりますと言っていただいたので、なにがしか共通するものがあるのかもしれない。

話していると、忘れていた彼女の些細なエピソードなども浮かんできて、ああだったね、こうだったねと想いを重ねていく。

思い出は増えるはずはないのだけれど、話していくと忘れていることを思い出すので、なんだか増えていくような気がする。

人を思うと書いて偲という字なのだけれど、本当にそうだと思う。

彼女が望んだように、彼女の話を重ねることで、またしあわせな記憶がつながっていく。

過去に向かうようでいて、未来に向かう時間でもあるのだ。

今のご時世何が起きるかわからないので、いったいいつまでこれができるのかわからないけれど、またこの貴重で幸せな時間が重ねられますよう。

祈りながら、笑顔で別れる。
そんな二年目の偲ぶ春。


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