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寛容

寛容ということ(はじめに)

 ChatGPTによると、「寛容」とは、他人の意見や行動を理解し受け入れること、または他人の違いや多様性を尊重することを指します。寛容さは、異なる考え方や文化、宗教、人種、性別、性的指向などの違いを受け入れ、尊重する姿勢を示すことです。また、寛容さは優越感や偏見に基づいた他者を否定することなく、共存や協力を促進するための心構えや行動を意味します。

という回答が返ってきました。

最後の方の「寛容さは優越感や偏見に基づいた」と「他者を否定することなく、共存や協力を促進するための心構えや行動を意味します。」という文章は句読点で区切るかどうかしないと誤解を招きそうですが…

 はてさて、「寛容」とは「寛(ひろく)」「溶(受け入れる)」ことなのかなぁと思います。

 広く受け入れるよ云うことは、ChatGPTが答えたとおり、「他人の意見や行動を理解し受け入れる」ことになるわけです。ということは相手の行為を受け入れる。『許す』ということになりますね。

 はたして、現代社会は寛容な社会でしょうか?

価値観

 「寛容」とは他人の意見や行動を理解し、受け入れることと定義するとすれば、どうやったら受け入れることができるのでしょうか。また、その理解すべき意見や行動はなにに起因するのでしょうか。

 よく「意見がくい違う」といいます。

 「意見」ってなんですか?

 またまた、ChatGPTによると、

 「意見」とは、個人の考えや信念、見解、または感情に基づいて述べられる立場や「意見」のことです。他人に対して特定の主題や問題についての考えや感想を表明することが含まれます。

と答えてきました。「意見」とは?と聞いているのに「意見」です。という答えはいかがなものかと思いますが…

 「個人の考えや信念、見解、または感情に基づいて述べられる立場や意見」

 個人の考えや信念、見解、または感情に基づいて述べられる立場の拠って立つ(よってたつ)ところって結局、個々人の「価値観」ですよね。

 そして、「寛容」のために重要なことは、相手の「価値観」を認めるというもの。

人ぞれぞれ。ほかの人と「価値観」がまったく一緒なんてことはあり得ません。すべてにおいて、全くもって、なにもかも同じ考えということはあり得ないと思います。

それは、人それぞれ大切に思っているもの(対象)が違うからです。同じものを見ていてもその見方、受け止め方はまったく一緒とは言えません。大切に思っているものが同じものだとしても、大切だと思っている度合いはまた違うわけです。

それは、現在までにその人が経験したこと、もの。その人の育ってきた環境というものは人それぞれ。バラバラ。全く同じであることがないからです。

そうしたものに裏付けられたそれぞれの人の「価値観」は同じものではないのが当然ですね。

 社会生活を営んでいる以上、人間関係に悩まされることが多いのもまた現実ですね。

 そんなときの解決策は決まって、相手の「価値観」を認めよう。ということです。

 相手の考えも認めず、自分の考えのみを押し付けていたらどうでしょう?

 「なんて、自分勝手な人だ。」と揶揄されるでしょう。

 相手の考えの裏側にあるもの、根本にある「価値観」を認めなければ相手を許すことも、受け入れることもできないですね。そして相手の「価値観」を認めることこそが基本的人権を守るということです。

同調圧力

 主義主張は多種多様にある。その主義主張を認めることが、それぞれの「価値観」を認めることこそが「寛容」につながるはずですよね。基本的人権を認めながらみんな社会生活を送っているわけです。

 ところで、現実の社会ってどうですか?

 先ごろ人類が初めて経験した「新型コロナウイルス感染症」のパンデミックの際にこの「寛容」という対応って影を潜めていませんでしたか。

 わたしは「新型コロナウイルス感染症」ウイルスの大きさとマスクの穴の大きさを比較してマスクは役に立たないと考えておりますがマスゴミが流す情報を信じる多くの方々によって形成された世論によって「マスク警察」なんていう現象まで出てきましたよね。

 そりゃあ、「感染したくない」という思いの中で、「パンデミックの原因がマスクをしない人だ」って決めつけて「それは違うだろう。」という意見を抹殺していませんでしたか。

 広島県呉市の市議会議員さんは飛行機に乗るとき、マスクをしていないからと搭乗拒否をされました。マスゴミ報道でクローズアップされましたが、この市議会議員さんの主張は誤っていたのでしょうか?

 法律でも規定されていないことを、国民に等しく求めることはできないと思いますよ。それこそ、「価値観」の相違と「基本的人権」の問題に関わってきます。本人はマスクを信用していないからマスクをしたくないと主張し、マスクをしないと乗客の安全が守れず円滑な航行ができませんという航空会社。いずれにも一理あるはずです。で、落としどころを探さなければいけない。

 ただ、個人的にはこの市議会議員さんの「価値観」は認めるとしても、公の場で飛行機の運航を遅らせてまで主張すべきことであったのか?もっと大人の対応ができたのではないのか。そうそう、この市議会議員さんが他の方の「価値観」を「寛容」に認めていればここまで大きな問題にはならなかったのではないか。

 もちろん、根本的なところは個々人の私権を制限するわけですから本来は憲法を改正して、緊急事態の行動指針などに従わせるような法整備が必要なことは大切なことですけど。

 また、ワクチンにしても同様でしょう。ワクチンを打たなければダメ。ワクチン打ってなければ旅行するにも、ホテルに宿泊するにもワクチンを打ってる人と打ってない人との扱いに差がありました。

 もちろん、マスゴミ、政府も同様にその動きを煽りましたね。ただ、ここもお互いの主張において相手のことを慮る(おもんばかる)「寛容」の気持ちが必要だったのではないでしょうか。

 ごく最近では、LGBT法案の成立に際して、「多様な価値観を認めなければいけない。

 少数の差別されている人々に理解の手を差し伸べなければいけない。」なんて云って大多数の人々の自由を制限する法律が多様性を認めるとか「寛容」の表れとして、理解の遅れている日本で国際会議の前に成立させなければいけない。なんてマスゴミの扇動による同調圧力の下、法制化されました。

 今の世の中「寛容」な世の中ですか?

リベラルの唱える多様性

まず、リベラルとはなんぞや。ということでまたまた、ChatGPTによると、

「リベラル」という言葉には、複数の意味がありますが、一般的には以下のような意味で使われることがあります。

  1. 政治的意味:リベラリズム(liberalism)とも呼ばれ、政治や社会の領域において、個人の権利と自由を重視し、政府の介入を最小限に抑えつつ、自由な市場や社会を支持する立場を指します。リベラルは、個人の権利や自由、平等、多様性、民主主義などを重視し、政治的・社会的な進歩や改革を支持する傾向があります。

  2. 社会的意味:社会的リベラルという言葉は、進歩的な社会政策を支持する人々を指すことがあります。これには、LGBTQ+ の権利、女性の権利、マイノリティの権利の促進、環境問題への取り組み、福祉制度の拡充などが含まれます。

ただし、国や文化によって「リベラル」という言葉の定義や使われ方は異なることがあります。そのため、文脈によっては、特定の政治的立場や社会的信条を持つ人々を指して使われることもあります。

まぁ、AIによってこのように定義されておりますが、1.の中の「個人の権利と自由を重視し」云々ということから多様性を認めようということになるのだとは思いますが、新たな「価値観」を認めるときにその「価値観」を同列に並べるのではなく、従来からの「価値観」を古いもの、誤ったもの、改善すべきものとして「価値観」を入れ替えようとしているのではないかと思われます。2.にもあります「LGBTQ+の権利」で云えば、先の同調圧力で示したとおり、この「価値観」を認めないことがおかしい。これまでの「価値観」が間違っているといった風潮を訴えてきました。

 事程左様にリベラルの方々が主張されるのは「多様性を認める」という基本とは裏腹に、己の主張以外の「多様性は認めない」という状況がみてとれます。

 今の世の中「寛容」な世の中ですか?

カオス

 たしかに、個人々々の自由な意見を尊重していけば、「十人十色」と言われるように、いろいろな意見があるわけですからまさにカオス状態になることが想定されますね。

 そこで多くの方々が共感できるであろう「価値観」に基づく規範作りが必要になるわけです。

 先ほどの同調圧力でみたとおり、法的な整備を求めないと私権の制限は出来ませんが、緩やかな規範として用いられるのが「常識」というものです。

 たとえば、交通規則。「青信号は進め、黄色信号は注意、赤信号は止まれ」これは交通法規に定められております。人々が勝手に信号の指示に従わないで車を運転したら、歩行者が歩いていたら、たちまち交通事故を引き起こしてしまうでしょう。交通に関する規則を設けることで人々の自由意思を制限してでも、人々の安全を守っているわけですね。

 たとえば、ゴミ出しのルール。わたしの近所のルールでは隔週金曜日にビン・缶・ペットボトルの収集があります。「ペットボトルはキャップを外し、ラベルを剥がして、軽く洗浄したものをゴミステーションに持ち込む。」というルールがあります。これはゴミ処理を効率的に、やりやすくするために定められたローカルルールです。

 たとえば、バス停に並んでバスを待つ。日本人は列をつくって整然とバスの到着を待ち、列に並んだ順番でバスに乗り込みます。これはルールというほどのことはないけれども、マナー、エチケットの範疇かもしれないが、みな常識的にそうしている。

 これらの例示には、法制化されているか、いないかに関わらず共通していることがあります。

 「自分の好き勝手ではない。」「相手のことを思いやっている」ということです。

 交通法規を守らなければ交通事故に遭う。遭わないためは、自分のためじゃないか。でも、事故に遭う方も災難だけど、事故の相手方も災難ですよ。

 ゴミ出しの分別だって、地域の美化とか、清掃する方のことを考えています。

 バスを待つ列だって、己の勝手ではなく、相手のことを、存在を認めている。

 こんな、基本に立ち戻らないと「寛容」ということを意識できないほど、世の中はカオスに突入しているのかもしれません。

 自由を求めるために、自由を認めるためにいろいろな自由がぶつかり合えばカオスに陥ります。 

光明(まとめとして)

 「寛容」とは、それぞれの「価値観」を認めてこそ、発揮できる行動だと思います。

 それぞれが好き勝手やっちゃえばカオスを引き起こす。

 あまりにも規制が行き過ぎれば、同調圧力が生じ、とても生きづらい世の中になってしまう。

 これまで、みてきたように「寛容」さには、互いに相手の「価値観」を認めるといったことが重要なわけですが、これは自分自身に余裕がないとどうやら難しいことのようです。

 同調圧力の項、リベラルの唱える多様性の項で皆さんにお伺いしたのは『今の世の中「寛容」な世の中ですか?』ということでした。

 それは、世の中があまり「寛容」ではないのではないか。という疑問に端を発しています。

 例えば、政権与党の5大派閥のパーティー券キックバック問題がマスゴミで大きく取り上げられ、やり玉に挙がっています。確かに政治資金規正法違反とか、所得税法違反という不法行為には厳正に対処しなければいけないと思いますが、パーティー券を販売して予定以上の売上がそれを売った者に還元されたからといって何らの問題はないわけですよ。後の処理さえきちんとしておけば…だけど、どうやら昨今のマスゴミの論調やマスゴミに扇動されて巻き起こる世論の風潮は結果がどのように処理されていようがお構いなく、ちょっとしたことでも許さないというふうにみえます。

 安倍元総理が暗殺された際に、いち早くマスゴミにより取りざたされた「統一教会」問題。こちらも「統一教会」という宗教団体の活動に問題があったのだとは思いますが、政治家が求められてメッセージを送ったとか、選挙の際に協力してもらったからということで即座に辞任に追いやられたりする問題なのでしょうか。

 一部の主張ばかりではなく、それこそ、多様性を認め、多くの意見、見解を発信できる状況。それこそが「寛容」な社会に向かう光明ではないでしょうか。

 人間は社会生活を送っております。

 たった一人で生きていけるわけではありません。

 人と人との関わりの中で問題が生じることはごくごくふつうにございます。

 そうした際には「寛容」な気持ちで、相手の「価値観」を認めつつ、理解をし合いながら生活していくのが円満な社会生活につながるのではないでしょうか。

 こころに、ゆとりをもって、余裕ある暮らしぶりのなかで、問題だと思ったことを水平的に問題と対峙するのではなく、上から見下ろすか、下から見上げるかしてみたら問題の違った部分が目に入ったりします。そうすれば自分とは異なる「価値観」に気付くかもしれません。

 そのためにモノラルは情報のみを収集するのではなく、SNSやネットなどを含めたいろいろなメディアの情報にも触れられるいまだからこそ「寛容」に向かって踏み出せるのではないでしょうか。

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