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声をあげるということ

Twitterをやるようになって、いろんな運動があることを知った。
世の中を変えるために、何かを主張するために、声をあげていく人々がそこにはたくさんいた。

私はずっと声をあげられない人間だった。
今まで学校やその他の場所でも、運動に参加したこともほとんどなかった。署名には参加することはあったけれど、ひっそりと。運動に参加すること自体が恥ずかしいと思っていたわけではないけれど、堂々とはできなかった。

声をあげられる人たちの強さが羨ましかった。
批判されても自分の考えを発信していくその力強さが、私にはないと思っていた。
私が声をあげられなかったのは、批判されるのが怖いから。傷つきたくないからだった。

最近、資格試験の会場でナンパされたという女性のツイートが話題になった。加害者の男性に対し、憤りの声が大半だったが、中には「ナンパくらいで騒ぐなんて」「避けられたのでは?」という声もあった。「将来その職を目指すのであれば、それくらいのことには耐えられるようになるべきだ」との声もあった。

ふざけるな、と思った。
こういう話では、いつだって被害者に冷静な対応が求められる。
被害者に求められることが多すぎる。毅然と対処することが美徳であるとされ、弱音を吐くと責められる。正直、意味不明だ。責められるべきはどう考えたって加害者でしょう?

私は彼女じゃないので本当のところはわからないけれど、彼女は誹謗中傷に傷ついたと思う。たくさんの応援の声の中に、ひとつでも誹謗中傷があれば気になってしまうかもしれない。ただでさえ嫌な思いをしているのに、なぜこれ以上傷つかないといけないのか。
それに、これは一個人のツイートであって、注意喚起のために投稿したか、もしくは普通に愚痴として書いただけだろうし、被害に遭ったことをツイートするという行為自体、何も悪くない。彼女は何も悪くないのだ。

今までは、誰かが発信して、それに対する誹謗中傷があって、という流れを見かけるたびに、こうなるのが怖いから、私は発信することができないな、と思っていた。私自身、ツイッター上で批判的なことを書かれてかなり落ち込んだことがあり、それがトラウマみたいにもなっていたのだと思う。
今思えば、そんな風に消極的になっていた自分が恥ずかしい。

でも、これからはちゃんと発信していきたいと思う。
特にナンパや性被害に対しては、個人的に色々と思うところがあるし、その他にも世の中にあるいろんな問題に対して、思っていることがたくさんある。
そのことについて、友人と話したり、SNSで発信したりしたい。もっともっと、沢山思っていることを話したい。共有したい。
それだけで何かが変えられるとは思っていないけれど、私が誰かの言葉に突き動かされたように、私の言葉が誰かの問題を考えるきっかけになったらいいなと思う。

批判されるのは今でも怖いけど、だからと言って黙っていたら、声をあげたいときにあげられなくなってしまう。
何か最悪なことが起こったときに、躊躇したくない。
現状を見て見ぬ振りをしていたのは自分でしょう?と思いたくない。
だから私は声をあげたい。

少し話はそれるけれど、私は上述したナンパの件について、リア垢で抗議の声をあげた。被害者がなぜ責められるのか、と。
そしたら、真っ先にいいねしてきたのが、去年飲み会で私に対してセクハラをしてきた同期だった。
恐怖と怒りで震えた。自分はセクハラをしておいて、他人のナンパには抗議できると思っているのかと。それをセクハラをした相手に堂々と伝えられるんだと。
ただただ、やるせない気持ちになった。その気持ちをここで供養。