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「あなたの話は、理解できない」と言われること

人は、同じ言語を話していても、時として、分野が違うと、相手が何を言っているのか?わからなくなる時もあります。

また、子どもなどが意味不明なことを口走ることもあるでしょう。

コミュニケーションで、必ずしも意思疎通がスムーズなことは、家族間で会っても難しいモノ。
お互いの理解がしにくいことは、いくらでもある。

「理解」ってどこまで必要なんだろう?そんなことを自身の体験から踏まえて考察してみました。


◆父との体験

私の中で、人間関係で一番最初に壁を感じた相手が父です。
これは、私だけでなく、家族全員が感じていることでもあったので、私の問題というよりは、父の問題にもなるのかもしれませんが、昭和の時代のあるある話の一つと思ってもらえればと思います。

父によく
「おまえらの言っていることはわからない!」と恫喝されたものです。
本人としては、話し上手だった気でいたのでしょう。
でも、今思うと、それは「話し上手イコール聞き上手ではない」ということ。

そして、世間が「発達障害」という言葉を生み出すようになってから、父が「アスペルガー気質」だったのでは?ということが、晩年になってわかったのです。

アスペルガー気質とは、お勉強などは理解できるので、頭が悪くないように思えるのですが、「自分の言いたいこと、主張したいことだけ」で、「相手の話が理解できない、相手の気持ちがわからない」という特性があります。

この手の方は、一見「お話上手」で、魅力的でもあります。

ただ、長いこといると、「話してはくれるけど、聞いてはくれない」ということが分かってきて、人が離れる傾向があります。
だから、家族・家庭の中では、父に寄り付く人がほとんどいない状態に、なっていきました。

なので、父も認知症になってから、面白いもので「自己紹介が大好き」という特性を生かして、デイケアやグループホームになぜかうまく馴染んでいきました。
そういう意味では、介護を第3者に委ねやすかったのは、子どもながら面白いなとは思いましたが。

話が逸れてしまいましたが、私は、父に「言っていることがわからない!」と言われるたびに、それ以上、何も言えなくなり、しまいには、

「理解してもらわなくてもいいや・・・」と諦めることが、癖になっていってしまいました。
なので、対面であまり話さないのは、自分が話し上手ではないとセルフイメージを抱いていることと、この人には(この環境では)何を話しても聞いてもらえると、本能的に感じない限りは、聞き手に回ってしまう癖がついてしまっているからでもあります。

なので、相手が理解したいと思ってないモードでも、自分の伝えたいことを話せる、ポジティブ(?)な攻め姿勢の方には、尊敬としか思えないところもあります。
あまりにも、行き過ぎると、「聞いてもらえないなんて最悪!」なんて、勝手に一人で解釈を変えて、イライラしているかもしれませんが(苦笑)

◆チームメンバーとの体験

かつて、10年くらい前でしょうか。
起業精神のある仲間と、励ましあって、起業&好きなことを形にすることができたらいいね、ということで、月イチで、会っていたチームメンバーが居ました。

元々は、当時、私が学んで習得したばかりの、東洋史観(算命学)をサービス化するのに、一人では頑張れないから、仲間が欲しいよね、アドバイザーとしていろいろ口にしてほしいと思って、集まってもらっていました。

そのうち、何の流れか、私のサービスとかビジネスをいつものメンバー以外にも聞いてもらって助言してもらう機会があるといいんじゃない?ということで、メンバーが交流会?みたいなものを企画してくれました。

しかし、雲行きがちょっと前ぐらいから怪しかったのはあるのですが、この交流会で、主要メンバーの一人が「私が何したいのか、わからない」というので、説明しだすと、途端に彼は席を立ちトイレに行ってしまうのです。

で、戻ってきては、「(今度は)この部分が分からない」というので、また説明しようとすると、また、席を立つ・・・
しまいには、彼以外のメンバーも、私の粗を探すような言動になり。。。

その日の私の心は、壊れはしないものの、立ち直れない状況になり、当然、チームメンバーとも、自然消滅&解散、状態になりました。

後日(と言っても1年以上経ってた気がする)、その交流会にだけ、参加してくれた人と、別件で話した時に、「あの日の話、空気は変だったよね。つっちーが悪いとかじゃないのに、なんか、粗探しするような雰囲気になってた。あの場は嫌だった」とその人も言ってくれたので、なんか、変な場が出来上がっていたんだろうな?と今では思います。

かなり振り返るのも、怖いぐらい、チーム作りの痛い思い出です。

そして、何より、一番理解してほしい人が「理解したくない」と言わんばかりの行動に、早く気づけば良かったなぁと思ったのです。

「わからない」「理解できない」の言葉だけじゃなく、その背景までくみ取る必要がある。。
今思うと、いろいろ深い学びをもたらしてくれたなとは感じます。

◆私の中の前提条件

過去の記事に、こんなことを書いてました。
「人は相手のことを全部理解するのは・・」
人は相手のことを全部理解するのは不可能と。。
これは、私が自分の言いたいことを言いきれない、言いたいことの半分も言えない気持ちを抱えやすいから、ということで書いた記事ではあったのですが。

「だから、人に全部理解してもらおうとしなくていい、もっと気楽に話そう」そんな自戒を込めた記事でもありました。

まぁ、過去の父とチームメンバーとのやり取りを、思い返すだけでも、そりゃ、自分の言いたいこと言えなくなるのも、わかる気がするなぁ~と、過去の自分に言ってあげたくなりますね。

今は、「言う・話す」よりも、書くことの方が饒舌になるようなので、書くことで自分の感情・気持ち・分析が冷静にできるようになってきているかもしれません。

人は、肉体を持つ前、言語を持つ前は、テレパシーなどで会話していたようですから、今の肉体、言語というのは、相当不自由なんでしょうね。

そういう意味でも、自分の中には、前提条件として「自分も、相手も100%理解しあえるのは不可能」と思ってます。
まぁ、可能なのはエスパー(透視能力、人の気持ちが読める)ぐらいですかね。いても、そういう人は、その能力を一回閉じてしまう人も多いようで。

◆「理解できてないかもしれない」

理解しようとしているが故のセリフ・言葉かもしれない。
私からすると、100%理解することは、制限のある人間という肉体を持っている限り不可能なことだとも思っているので、寄り添う気持ちはありがたいとは思っています。ただそれ以上に「相手に理解してもらうために、私がさらに考える」ことは、父やチームメンバーとの軋轢体験から、諦めてしまうのかもしれません。

これは、私自身の事例でしかないので、誰のせいでも無い、何が問題なのではなく、

うまく人に理解してもらえなかった体験があるから、普段からわかりやすい言葉を発するクセがついているので、そこを「もっと」と言われると、心のどこかで「もう、無理かも」ってなるのかもしれません。

そうすると、あまり話さないモードに。。

今は、流石にダンマリになることは、無いと思いますが、ベラベラ話すことは、減るのかもしれません。

話すことをしなくても書くことで、自分の思いや感覚に冷静になれたりするので、こうやって、自分の解釈を書いたりすることができているのかな?とは思いますけど。

自分の余裕ができたら、また、理解してもらうためにどうすれば?と考える余裕も出てくるのかもしれません。

善意だとしても、寄り添ってくれているのだとしても、理解してもらうために考えるというのは、エネルギーいるんだなというのが、今の私の感じ方でしょうか。

◆理解はできないけど、信じる

多分、私が言われたら嬉しいのは、「理解してもらうことより、信じてもらえること」なんだと思う。

あまり、大っぴらに言うことでは無いのかもしれませんが、昔から、家族の中でも「理解されない」ポジションにいました。
言うなれば、保守派の中に新鋭派だったからのように思います。

母は、間質性肺炎を患って亡くなりましたが、亡くなる直前は、体内の酸素が足りないからなのか、意味不明な行動がありました。
家の中でも、連絡を寄越すのにメールで連絡するぐらい弱っていたのですが、その中で送られてきたメールの中に

「〇〇さん(私のこと)は大器晩成、もろ人の信仰も認めてその上を往く人です。後から追い掛けたい。」

この言葉の真意を聞く前に亡くなりましたが(聞いても、「その文章のとおり」としか答えてもらえなかった)、私にとっては、最高の遺言だなと今でも思ってます。

ちょっと自惚れのような気がして「公開せず」にいたんですが、理解してもらうことより、何よりの賛辞だなと感じたので、公開してしまいました。

この文章は、大げさにしても、要は
「よくわからないけど、応援するよ」というのと、似ているのだと思います。


◆もちろん、理解される方が嬉しい

とはいえ、理解もしてほしいというのも、わがままな本音です。

だから、「わかるー」なんて言われると、それだけで、飛び上がるほど嬉しくなってしまうのです。

ホントに、図々しいというか。。

ここまで書いてきて思うのは、「理解」というのは、最後で、根底には「信頼、信用、応援」の土台があれば、理解は少しずつでもいいのかなという風に感じてきました。

どんなに似たもの夫婦でも、結婚してみたら、生活習慣などが全然違っていたなんて言うこともあるでしょう。
喧嘩も絶えないこともあるでしょう。

でも、その根底に、相手を信じる、相手を大事にするという土台さえあれば、徐々にパートナーシップだとか、家族関係を構築することができるんだろうなぁと感じます。

全てを言葉にすることは難しいこと。

だからこそ、相手に対する、感謝と尊敬と尊重が大事なんだろうなと感じるのです。
それがないと、ただの傷つけあい。

聞く姿勢、相手の存在への思い。
それらが高まれば、おのずと、暖かい気持ちに包まれるのかもしれない。

あなたの人生のヒントになれば、幸いです。
あなたの人生が良くなるよう、心から応援しています。

今回も記事をお読みいただきありがとうございました。

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