彼にメダイを贈りなさい

 シスターの目は潤み、ティーカップを持つ手が微かに震えているのがわかった。彼女は窓の外にうつろな視線を送り、絶え間なく続く車の流れをじっと見つめていた。
「それで、あの本を読んだのですね」
 視線を老作家に戻した彼女は話を続けた。
「机の上には昼のバザーで売れ残った本が六冊ありました。私は本を読むのが好きで、売れなかった本を持ち帰っていました。毎晩寝る前にきまって本を読みます。そうしないと落ち着いて寝つけないのです」
「その中にわたしの本があった。しかも、売れ残って……」
「失礼な言い方ですいません。私にはとてもおもしろく、一気に読んでしまいました」
「ありがとう。あまりお気遣いなく」
「いえ、ほんとうに先生の御本には心をうたれました。手紙にも書かせていただきましたが、先生の真摯な思いが私の心に伝わってきたのです。私にはマリア様が言われたのが、この本だと確信いたしました」
 しばらく出版の世界から遠ざかっている真中には、とくに心地よい賛辞だった。
「夢の中の聖母マリアはあなたに、わたしの本のタイトルを指示したわけではないのですね」
「はい。確かにマリア様はあのとき、本のタイトルも著者の名前もお告げになりませんでした。ですから私はそれがどの本なのだろうかと考えてみました。一冊は旅の本で、京都周辺のガイドと案内が主で著者の名前はありません。他の二冊は翻訳もので、作者は外国の人でしたから、これも違うと思いました。マリア様が言われたのは、きっと日本の方だと感じておりました。
 先生の御本を含めてあと三冊が残りました。一冊は推理小説で、その作者はもう亡くなっています。残る一冊は純文学の傑作でしたが、やはりその作家も数年前に不慮の死を遂げられています。私は躊躇なく先生の御本を手にしました」
 少し落ち着きを取り戻したシスターは、今度はつつましやかにティーカップを口に運んだ。
「なるほど、あなたの神様はわたしにもよくそのような洒落たことをされる。そのときにはただびっくりして、とても謎めいてみえるが。よく考えてみると、すべてが必然的にそこへたどり着くように意図されているとしか考えられない。あなたへの指示も、バザーで本が売れ残ったから、わたしを選んだのかもしれない。あなたの推理力があればおのずとわたしの本だとわかることを計算していたに違いない。聖母マリアが俗っぽいわたしの本のタイトルや名前を具体的に告げるというのは、神秘性に欠けてらしくない。だから、あえて本のタイトルを告げなかった」
 真中の推理に、シスターは少し口元を緩めて頬笑んだように見えたが、なにも答えなかった。
「あなたはわたしの本のどこがよかったのですか。いくら聖母マリアのお告げだとしても、あの本はとてもあなたのようなひとを感動させるようなテーマではないと思うのですが」
「シスターだからといって、いつもそれらしいものだけを読むわけではありません。先生の御本を読みだしたら、もうやめられなくなって一気に読ませて頂きました。そしてあとがきに書かれていた、幼くして天国に召されたお子さんへの強い想いと深い愛情のこもった文章には感激いたしました。涙が溢れて止まりませんでした。先生への手紙はその気持ちをありのままに書いたにすぎません」
「ところで、わたしの身に起きた不思議な現象をどう思いますか。ほかにも同じような経験をしたひとはいるのでしょうか。あのメダルには本当にこんな効果があり得るのですか」
 矢継ぎ早に真中はシスターを問いただした。椅子の肘掛に両手を置き、一歩テーブルに近づけた。少し前かがみの姿勢をとり、彼女の顔を見上げるように視線を向けた。シスターは一度下を向き、次に目線を外した。
「マリア様がもたらされた奇跡の一種だとは思うのですが、私にはよくわからないのです。昔、手に入れた不思議のメダイを特集したカトリック誌を捜してみたのですが、見つけることができませんでした。もし、先生がパリへ取材に行く機会がありましたら、バック通りにある不思議のメダイの教会をお訪ねください。きっとなにかわかると思います」
「あなたにもよくわからないのですか…。残念です」
「お役に立てず申し訳ありません」
「では、聖母マリアとはいったい何者なんですか」
「何者かと言われましても、そんなことは考えたこともありません」
「そうですか。では、あなたのおっしゃる彼女の奇跡とやらがキリスト教徒でもないわたしにとって、どんな意味を持つのでしょうか」
「それは……」
「わかりました。いいでしょう、自分で確かめてみます」
 彼女の口からもっと多くの情報を聞き出したかったが、シスターはスカートのポケットからバンドのない時計を取り出しては、時間を気にするそぶりを繰り返した。修道院の外出の決まりで長居はできないと聞いていたから、無理に引き留めることはできなかった。
 シスターは確かに自分の本を読んだ。そして手紙を書いてあのメダルを同封した。すべては聖母マリアの指示だったのだ。不思議な現象の数々にも、何らかの形で聖母マリアの力が働いているのだろうと、真中は事の真相に近づくヒントだけは手に入れることができたのだった。


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