シスターと老作家


 老作家との約束を明日に控え、シスター・アン粟津は生涯忘れないであろう、あの日の夜の出来事を思い出していた。
 六月十日は特別なバザーが開かれる日だった。彼女たちの修道院では、半年に一度、信者から寄付された品物を近所のひとたちとの交流をかねてバザーで売り、その売上げを運営資金として使っている。その日はいつになくたくさんのひとが集まり、とても賑やかで忙しい一日だった。
 夜八時頃、シスターは売上金の集計をしながら記帳している最中に、ついうたた寝をしてしまった。そんな時間に、就寝前のお祈りを済ませないまま、眠り込むのは初めの経験だった。
 彼女は夢を見ていた。目の前に、マリア様が立っている。お言葉が聞こえた。                 
(本を読みなさい。それを書いたひとに、わたしのメダイを贈りなさい)
黙って頷いた。
(本を読みなさい。それを書いたひとに、わたしのメダイを贈りなさい。これはわたしの意思です)
 はい、と答えたところで、目が覚めた。シスターはひとしきりマリア様への祈りを捧げ、そのお言葉を噛みしめた。
 彼女たちシスターにとって、イエス様やマリア様のお姿を夢見ることは憧れであり、まして言葉をかけられたとなれば、これにまさる感激はなかった。過去に何度かお姿を見たシスターはいたが、お言葉まで、それもはっきりと何かを命じられた幸せ者はほとんどいない。
 あの日のことを思い出しただけで、シスターの目は潤み、ペンを持つ手が小刻みに震えてしまう。
 しばらくして落ち着きを取り戻すと、眼鏡を外し、眠りについた。

 約束の時間に十分ほど遅れて、真中克彦は新宿西口にあるシティホテル一階のラウンジに到着した。近寄ってきたウエイターに「待ち合わせです」と一声かけ、毛足の短い絨毯が敷かれた店内をやや早足で進み、私服姿だというシスターを探した。奥のボックス席にひとりポツンと座り、銀縁の小ぶりな眼鏡をかけて本を読む女性が視界に入った。彼女がシスター・アン粟津に違いないと思った。
 地味なグレー色のコートの下には、何の飾りもない白い絹のブラウス、スカートは黒無地のロングで、ストッキングも同じく柄のない黒で合わせていた。背は高く痩せぎすで、長めの黒髪をうしろでひとつにまとめ、化粧はほとんどしていないように見えた。電話では「若くはありません」と言っていたが、実際はまだ三十代そこそこだろう。彼の視線に気づいた彼女が、ゆっくりと読書用の眼鏡を外して立ち上がった。その背たけは彼とほぼ同じくらいあり、面長で色は白く、頬骨がはっきりしている。形のよい唇をあけると整った歯並びが覗く。
「真中先生ですね。ずっとお返事しなくて、ほんとうに申しわけございませんでした」
 彼女の声は静かなトーンで、彼の耳に心地よく響いた。
「お待たせしました。どうしても断り切れない用があって、この隣のビルに行っていたものですから。遅れて申しわけありませんでした」
「いいえ、突然に日時を決めたのは私のほうですから。お忙しいところ、ほんとうにありがとうございます」
 丁寧にお辞儀をした彼女の頭が上がるのを待って、真中はボックス席に腰を下ろし、彼女を見つめた。シスターをこんな間近にするのは初めてだった。肌の色つやはよく眉はごく自然で、瞳は大きかった。見つめ返してくる視線は澄んだままで、わたしの何かを見定めているようだった。落ち着かなくなって、いつもの癖で無意識にタバコをくわえた。
「あ、すいません」
「どうぞ、私は構いません。タバコの匂いは好きなんです。子供のころ、よく祖母が吸っていましたので。自分では吸いませんが、平気ですから」
「実はわたしも、母方の祖母が火鉢の前でおいしそうにキセルでタバコを吸うときに、べったりとはりついて、その煙をくんくんと嗅いでいました。そのせいか中三のときから親に隠れて吸い続けています。これがないと、まともに頭は働かないし、どうにも落ち着きません。あなたもおばあさんのタバコの煙を嗅いでいたとは、不思議な偶然ですね」
 あらためてシスターを観察した。ずっと年下のはずなのに、子供のころに感じた母のぬくもりを思い出させた。いや、とても優しかった祖母の雰囲気だろうか。
 ウエイトレスにコーヒーを頼み、彼女には新しい紅茶を注文した。なにかケーキでもと聞くと、首を横に振った。まだ昼食をすませていなかったので、うまくないと知りつつ、自分にはハムサンドを、彼女にはタマゴサンドを追加した。
 シスター・アン粟津は何も言わず、じっと彼の顔を見つめている。ノンフィクション作家の真中は原稿を書くために仕事柄ひとと会い、相手の表情を観察するのは得意なのだが、逆に見つめられることには慣れていない。書くテーマがテーマだから、あまり女性にインタビューする機会もなかった。
沈黙は注文の品がテーブルに置かれる音で破られた。彼女はゆっくりした動作で紅茶にミルクを注ぎ、かきまぜて一口飲むと、おもむろに口を開いた。
「先生は無神論者だと書かれていらっしゃいますが、マリア様についても同じでしょうか」
「あなたにいきなりこんなことを言うのはどうかと思いますが、わたしは神をまったく信じていません。というより、元々その存在が信じられなかったのですが。あなたが不思議のメダイと呼ぶあのメダルをもらってから立て続けに起きたことには、正直驚き、戸惑っています。だからこそ、あなたにも会う気になったのです」
 真中はハムサンドを口にしたが、いつものようにまずかった。この老舗のシティホテルはどうしてこんなにパサついたパンを使うのだろう。
 シスターは真中の存在を忘れたかのように、あの日の出来事を語りはじめた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?