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「やれるだけやった」と振り返って納得できるように、自分で決めて最善を尽くす。

「これからどうしよう?」と迷ったときに何かのヒントを見つけてもらえればという思いでご紹介してきた「身近にいる普通の働く女性たち」のキャリアや人生についてのインタビューエピソード。

第18回となる今回のお話は、マーケターとしての専門性を軸に計4社でそれぞれに活躍をされた後、役職定年での退職を決意された、さわさん(仮名)のお話です。

さわさん(60代前半)
経歴: 大卒後、メーカーのマーケティング部署で活躍。出産後、40歳を前に初の転職。その後は培ってきたマーケティングの専門性を軸に、計3社でマーケティング部門の要職を歴任。4社めでの58歳の役職定年を機に退職。夫と子ども一人(既に独立)。

#ライフデザイン #インタビュー #働く女性 #二重保育 #ワーク・ライフ・バランス #転職 #役職定年

新卒で入社した会社では、大学時代にゼミで専攻したマーケティングの部署に配属され、大卒女子のパイオニアとして活躍された、さわさん。出産後も「やるならちゃんとやる」という精神で力を尽くしてきたが、ワーク・ライフ・バランスを考えて転職することを選択。計4社でマーケターとして貢献されて、58歳で役職定年になったのを機に退職。ご自身で納得して転職を重ね、遂に退職されるまで、どのように走り抜けてこられたのでしょうか?

―――今回、ライフヒストリーや人生曲線を書いてみていかがでしたか?
まとめると大したことやってないなと思いました。人生曲線の最初の谷は、10代で母が突然死のような形で亡くなった時です。心臓疾患により、朝起きたら冷たくなっていたんです。予期せぬことだったので、高1~高2の1年間は記憶が消えているんです。それほどのショックでした。大学に入り、生活を忙しくすることで乗り越えてきたように思います。
30代半ばの谷は、父が亡くなった時なのですが、この時は結婚していたし仕事もしていたので、母の時ほどは落ち込みませんでした。がんだったので覚悟もしていました。それ以外は、転職や親の介護、家庭のこととかいろいろ混ざってちょくちょく下がってはいますが、まあ機嫌よく平穏に過ごしてこられたかなと思います。

さわさんの描いた人生曲線

大学でマーケティングと出会い、マーケティングのできる会社に就職

10~30代:大学~就職1社目

―――ご自身で思うターニングポイントは?
大学で商学部に入ったあたりと、仕事で転職しているところですかねえ。
大学は学校推薦で文学部を希望していたのですが、枠が空いていた商学部に進みました。希望と違ったわけですが、結果として商学部に行ったのが大正解でした。文学部に行ってたら、国語の先生になってたかも。

―――最初の就職はどのように考えて選んだのですか?
メーカーのマーケティングに興味があったので、大学の卒論時に取材したメーカーに行きました。他に内定をもらったところは、人事か総務配属と言われて、そういった仕事は気が進まなくて辞退しました。
一方で、一生仕事を続ける気はなくて3年で辞めるつもりでした。当時は子どもができたら辞めるのが普通で、将来子どもに「お母さんは、3年間はすごく頑張った」と言えればいいと思っていました。
入社後は希望した企画(マーケティング)部署に配属されました。当時は、同じ仕事なのに給料に男女差があって、上司にどうしてか聞いたら、「君たち大卒女子が頑張れば、そのうち同じになっていくのでは?」と言われました。その後、男女雇用均等法が施行され、処遇は一緒になりましたが、それでもお茶当番は女子の仕事でしたね。
でも、仕事はいろいろなことをやらせてもらって楽しかったです。入社1年後、新事業に異動して事業の立ち上げから関われたときは、楽しくて、楽しくて。結局3年では辞めずに、あれよ、あれよとその部署に10年いました。その後、次の部署に移って、結婚14年目の38歳で出産したのですが、そのときはブランドマネージャーになっていたので長い育休をとってはいられず、11月に出産して翌年の4月に完全復帰しました。そこから子どもはずっと二重保育。毎朝、夫がタクシーで保育所に連れていき、民間の保育ママの方にお迎えに行ってもらって、帰りはその方の家に迎えに行くのが、たいてい夜8時~9時という生活でした。

どうせ家族に負担をかけるなら楽しく働ける方がいいと転職を決意

40代:2社目、3社目、そして4社目へ

―――その後、会社を辞めることになったのは、何かあったのですか?
他の部署への異動内示が出たんです。状況的に、私が女だから異動になったように感じたし、そこで担当するブランドにあまり興味も持てなかった。ちょうど、そのタイミングで外の会社の方から声がかかり、そちらのブランドの方が、マーケティングをやる上で魅力的だと思ったので転職を決めました。なにより、どうせ夫にもまだ1歳に満たない子どもにも同じように負担をかけるなら、楽しい仕事ができた方がいいと思い、そのように夫にも話をして了承してもらいました。
退職にあたって上の方々に挨拶に行ったら、「小さいお子さんがいるし、仕方ないよね」という方がほとんどでした。子育てのために辞めるとか、もっと忙しくない仕事をすると思われていたようです。
そんな中で、「さわさんが辞めるのは、単に一女子社員が辞めるのとは意味が違うよ」と役員の方が言っておられたと、以前の上司が教えてくれたんです。この言葉は心に残りました。自分の勝手で辞めるというのではなく、自分が今までがんばってきたことで女子社員のことを十把一からげで見るのではなく、1人ずつ見てほしい、そして今後のアテンションにもなってほしいという私の思いが伝わったようで、嬉しかったしほっとしました。

―――転職先ではいかがでしたか?
転職先は外資系の会社でした。マーケティング副部長として複数のブランドのマネジメントをしました。その後、上司のマーケティング部長が社長になり、玉突き的に自分が副社長になりました。そのときは、副社長と言ってもそれまでの仕事の延長という状態で、特に変化はありませんでしたね。
けれども、その後商品分野が増えて仕事が忙しくなったのと、海外への出張も多くなり、子どもも小学校入学となってきて、「ワーク・ライフ・バランス的にこれ以上は無理だな、やるだけやったからここでいいかな」と思うようになっていました。小学校に入ってからも二重保育のままで、それを中学1年くらいまで続けました。運が良かったのは、夫はその頃は出張がない仕事だったので、子どものフォローをしてくれたこと。ほんとに、夫のサポートがなければとても無理でしたね。当時は、中途半端な選択肢がないように思っていて、やるならちゃんとやる、という気持ちでいました。

―――そして3社目の会社に移られたのですね。
さすがに少しは楽をしたいと思い始めた時に、1社目の勤務時に取引のあったマーケティング会社の社長さんから声をかけていただき転職したんです。でも、入ってみたら思っていた感じとは違っていて、ここで定年までの残り10年は働けないなと思いました。その時にばったり会った知人に転職エージェントを紹介されて、その縁で4社目となる会社に入りました。新しい分野の事業を立ち上げるので人を探しているということも魅力的で、立ち上げ前に入社しました。

想定と違う状況下でも培ってきたマーケティングの実績をベースに貢献。役職定年を機に退職を決断。

50代:4社目での踏ん張り、そして納得の退職へ

―――で、4社目ではいかがでしたか?
立ち上げるはずだった事業は、社内でいろんなゴタゴタがあって頓挫しちゃったんです。で、事業がうまくいかなくて、この事業のために採用した私をどうしようというのもあったんでしょうけど、関連会社に出向して、新設されたマーケティング戦略部の部長としてブランド戦略をやることになりました。その後、広報宣伝の仕事を担当することになり、結局その会社にずっといました。

会社の規定で58歳が役職定年で部長職ではなくなるので、そうであれば会社にとどまる必要はないなと思って、それを機に退職して、会社組織の一員としての役割を終了することにしました。

―――役職を退いて、60や65歳まで会社にいることもできたのですか?
はい。でも、私にとって「役職」は目標や目的ではなく、手段。会社という組織において、ある一定の役職がないとモノを言っても認めてもらえない。組織でやりたいことをやるためには一定の役職は「必要なもの」。組織にいる以上、自分がやりたいことをやりたいし、それができないなら組織にいる必要がない、という考え方なんです。組織の中で自分の時間を捧げてきて、これはもういいかなと思ったんです。それも、夫が同じ年でまだ働いているから言えてしまうことで、わがままというか贅沢ですね。

―――役職定年を前にして、本当に辞めるかどうかは迷いませんでしたか?
迷いませんでしたね。「もうやることはやった、ごちそうさまでした」と思いました。辞める2年くらい前から、58歳で辞めると周りに言っていましたね。

平凡なおばあさんでいられた、と最期に思えたら幸せ

今後について

―――これから先についてはどう考えていますか?
自分の培ってきた知識や経験を伝えるために、外の人とつながりたいという思いはあるのですが、なかなかチャンスは来ていないです。アドバイザー登録はしてあって、退職後、数社で短期のアドバイザーや研修などをやりました。お金をもらうことよりは、やってきたことを伝えることで少しでも役に立てればいいと思うので、機会があればまたやりたいです。
それと町内会の仕事。防災役員やお祭りの盛り上げ隊など。町内会は1300世帯と世帯数が多く、年配の方が多いので60代でも若い方なんです。ずっと働いていたので町内会にはあまり縁がなかったのですが、子供会に入っていたのでそのメンバーのつながりでお手伝いをしています。
今後のことを考えると、父の言葉が思い出されるんです。父が若い頃に「苦労があっても最後に平凡なじいさんばあさんになれれば幸せだが、それが意外に難しい」と言っていました。幸いなことに、夫、子ども、自分とも、健康には恵まれてきましたが、何か起これば生活は一変しますよね。だから、最期、亡くなるときに、「ああ、平凡なおばあさんでいられた」と思えればいいなと思うんです。

―――事前にお願いしたヒストリー表には、印象に残った言葉をいろいろ書いてくださっていますね。
そうですね。なんかいろいろ思い出されてきて。
「自分に恥じない仕事をすればいい」というのは、4社目の会社で事業がうまくいかなかったときに役員に言われた言葉。企業文化の違いに苦労していた時だったので「いいんだよ、自分に恥じない仕事をすれば」という言葉は印象に残りました。
「上に立つ者は自分を信じなければ人はついてこない」というのは父の言葉です。私は「自分が人を信じる」の方が先だろうと思っていて、この言葉には納得していなかったのです。でも、これだけ転職してくるといろいろなトラブルにもあいますし、年を重ねていくうちに、4社目の役員の方に言われた「自分に恥じない仕事」、つまり「自分が信念を持ってやっていけなければ人はついてこない」ということがやっとわかってきました。これだけ転職して経験を積んできて、あるときふっと納得しました。 
あと、学業のことで、「いつでも上から1割くらいの所に、7~8割の力でいることを意識せよ」ですかね。これも父に言われた言葉です。ずっと全力でやっていたら息が切れちゃう、ずっと下の方にいたら、いざという時に力を出しても追いつけないぞ、ということなんですね。思春期まっただ中で母を失い父子家庭になったので、父に対して反発もあったように思いますが、今回ヒストリーを書いてみて、思い出す言葉は多かったです。

最後は自分で決める。自分で決めたことなら、間違っていてもまた考えればよい

女性たちへのメッセージ

―――今、迷っている女性たちに何かアドバイスやメッセージがありますか?
 何に迷っているかにもよりますけど、人生の中でいろんな分かれ道に来ると思います。就職、結婚、出産、転職。分かれ道に立ったら、いろいろ想像して考えてほしい。自分だけでわからなければ、家族でも友人でも何でも聞いてみよう。そして最終的には迷って迷って自分で決める。この人に言われたからこっちに行くのではなくてね。自分で決めた道に行って、あとで違っていたと思っても、自分で決めたよねと思えば後悔しないはずなんです。自分で決めたんだから、また次にどうすればいいかを考えてあっちへ行くかこっちへ行くかを決めればいいんじゃないかなと思いますね。

―――今日、インタビューに参加してみていかがでしたか?
自分を振り返る、いいきっかけになりました。その時その時、自分が納得いくように最善を尽くしたと思います。父の死に際も、そのときにできることをしようと、病室から一週間会社へ通いました。やるだけやったよねと思えるように、自分が納得できることが大事なのかなあと思いました。

(*文中の写真はイメージです)

インタビュアーズコメント

働きぶりに関するお話を伺っていて、お子さんもおられる状況で、本当によくがんばってこられた方だなと思いました。退職時に「一女子社員が辞めるのとは意味が違う」と言われたことからも、女性活躍の道筋を開拓してこられた方なのだろうと容易に推察できます。「その都度で、最善を尽くした」と振り返られていますが、悲壮な感じではなく、自分が楽しく、納得できるようにと選択してこられた、さわさん。58歳で辞めると決めていたというお話も、爽やかな表情で話されていました。たくさんの大切な言葉とともに、これからの人生もまた、ご自身で彩られていくのだろうと思います。

【L100】自分たちラボ からのお知らせ

ライフデザイン研究会【L100】自分たちラボでは、働く女性に対するインタビューを行っています。詳細は『働く女性の人生カタログ』~プロローグ~をご覧ください。

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