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周回遅れの「社会的責任論」に対する反論。あるいは「誠実さ」について。

発端

 話題が紛糾している例のnote(以下「当該note」と称す)を一読して感じた違和感、不快感を一度箇条書きに書き出してみたところ、バズったというレベルには到底行かないが、私のような泡沫アカウントの長文連投にしては割と盛況をいただいた。(分かりづらいというご指摘も含めて)

 その連投の最後に「気が向けばnoteにまとめるかも」と書いたものの、正直、私なぞより有名論客である青識亜論氏ヒトシンカ氏(とつげき東北氏)らが要点をみごとに突いた反論を書いているので、まあ、今更二番煎じにもなるし、とも思いそのまま埋もれさせようと思っていた。

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 ……そう思っていたんである。
 それが、何の気無しに当該noteに記述してあることが気になり、調べてみたところ、気が変わった。

 まず、この最初に投稿した私のツイートをリンクする。(「分かりづらい」という声もあるので、連投全部に目を通す必要はないです。)

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https://twitter.com/happy_world2/status/1300805112919519233

 「気になったこと」というのは当該noteにある、

>「小児型ラブドールを使用することで小児への性加害が助長されると言うなら、とっくに海賊漫画に影響されて大航海時代が来ている」(意訳)というものである。このツイートを晒したいわけではないので、直接の引用は避けるが、間違いなくこういう意図のツイートが流れてきた

というくだりである。
 この部分を読むだけでも、元のつぶやきが問題としているのは「大量に発生する」ということであり、「マンガの影響の有無」自体ではないということが推測される。(確定的な部分はないが、少なくとも「マンガの影響の有無」自体は云々されていないのでそれを言い出すのはおかしいのである)
 それを確認するために、リンクが貼られていない元のつぶやきをさがしてみた結果、見つけたのがこのツイートである。

ワンピの影響で大航海時代になってる2

※このnote中で「元のツイート」という場合にはマンガのことではなくこのツイート群のことだとご理解ください。

 「海賊漫画」と「ワンピ」、「大航海時代」と「大海賊時代」と単語の違いはあるが、ショタドール漫画で盛り上がった期間中にバズったツイートであること、大航海時代での検索では組み合わせのワードを変えてみても他に該当しそうなものがひっかからなかったことから、このつぶやきのことで間違いないと思われる。(他のつぶやきだと言う場合はご指摘ください)
 まず、当該noteはタイトルで「"社会的責任"を茶化すのは」と書いている。その後に他のつぶやきについても触れているが、「つぶやきの意図」が「「小児型ラブドールを使用することで小児への性加害が助長されると言うなら、とっくに海賊漫画に影響されて大航海時代が来ている」(意訳)」だと「間違い無い」と断言しており、以後の論を見ても「茶化す」というのはこのツイートを含めている。

 では、その元のツイートの意図が「"社会的責任"を茶化す」というのは事実だろうか? そもそも「社会的責任」とはなんだろうか?

このツイートは「茶化し」ているのか?

 画像の方、当該noteが直接リンクを避けているのでそれに倣って名前等は伏せてあるが、調べればすぐ見つかるので確認が必要なら確認してほしい。連投なので、そのつぶやき一つだけ見るか、一連のつぶやきを見るかで印象が変わるかもしれないが、一連のつぶやきを見る限り「大海賊時代云々」は明らかに「意図ではない」。
 全体を読んで意図を汲み取れば、、ペドフィリア、ショタのような性的嗜好者の欲望を否定することを、親の立場としても疑問を呈する、というのが主旨である。「大海賊時代云々」も「漫画による影響の有無」については一言も言及していない。少なくともこの文章から読み取れるのは「海賊だらけになるような大規模な影響があると考えられない」という意図である。
 意図というならば、そちらの方であるはずだ。(そしてマンガの影響の有無自体についてはやはり書いてない)
 当該のnoteの著者はその後の「大喜利大会」を苦々しく思って書いたのかもしれない。しかし、当該noteで最初に特別に触れている元のツイートについては、意図的か読み違いか、大きく意図を捻じ曲げている。
 これはたとえ非意図的であろうと決っして良いことではない。(私は常々行っているが「善意は善を保証しない」)

 そのことへの反感が、一度はモチベーションの下がったこのnoteを再度書き始めた動機である。(あと一点、当該noteにて元の一連のつぶやきにあった「ある部分」がオミットされていることもだが、それについてはあえて明記はしないでおく)

内容の精査

 まず、当該noteの最初のくだり、大元のマンガの公開をオープンで行うべきではないという主張。これについては私も同意である。鍵垢と言わずとも「センシティブ設定」ができるのだから、システムの趣旨から言って、「倫理的に」これを利用するのが望ましかった、と考える。だが、理由と強制性についてはまったく同意はできない。あくまで「望ましい」だ。

>「小児性加害に関するツイートを公開するのは」

 元のマンガの内容は「小児性加害」だろうか? 明確に「否」である。この手の行為を加害と呼ぶには「被害者」が必要である。ではこの行為により脅かされたり加害された具体的小児がいるだろうか? いや、いない。せいぜいがこの漫画を見ることで怯える子がいるかもしれないというくらいだ。自分としてはそれもありセンシティブ設定が望ましいと考えるが、それとて「性加害」とは言えない。そもそも「小児性加害に関するつぶやき」と言うのだから、つぶやきそのものが性加害とは言っていない。ショタドールを愛でるという行為が性加害だと言っていることになる。

 ここで当該note著者は驚きの論理展開を見せる

>現実で思いを遂げたら即犯罪である。

 うん? そうだけど? でも現実の小児には手を出してないですよね?
しかし次に言っていることが、

>「『ONE PIECE』は確かに海賊を増やしてはいないが、それは海賊自体なるのが難しいだけかも知れない。でもロリ漫画やラブドールは、扱っている児童性虐待という題材が実行容易であるにもかかわらず、児童性虐待を増やしていない作品である」

 当該note著者は、行為の「容易性」を理由に「海賊とは違う!」と主張する。だが、その主張は何を裏付けにしているのであろうか?

「犯罪」は「容易」か? 

 当該noteの筆者は「児童性虐待は容易」と書く。しかし単純なことを見落としている。「犯罪というのは、犯すこと自体に心理的障壁とリスクが伴う」ということである。児童性虐待の被害者と加害者の関係は8割が肉親あるいは顔見知りというデータもある。(参考

 海外で聖職者による児童性虐待がときおり話題になることでもわかるように「被害者である子供が被害を訴えられない」という「関係性の密室」での犯行が多いということである。つまり、当たり前のことだが「犯罪者はバレたくない」し「犯罪がバレることを恐れている」。

 このことが示すのは、「犯罪はリスク」という認識そのものが抑止力になっているということでもあり、肉体的物理的に容易だからと実行に直結されるものではない。(これは社会的弱者が犯罪の被害者になりやすいということを否定するものではない)

 また、当該note中で示されている文春の記事も、著者の主張を支持する論理的な根拠にはまったくなっていない。

 ちなみに表現規制は犯罪抑制の効果があるかというのは、反表現規制界隈ではよく出る話題であり、直感的な理解に反し、「表現規制は犯罪抑止に結びついていない」とする研究は幾つも出ている。(むしろ表現解放が犯罪を抑制してるのではないか、とする意見もあるが、これには断言できるだけの結果は出ていないと判断し、私は立場を保留している)
 これについては本題ではないので「強力効果論」で検索して調べていただきたい。

 そしてここで出てくるのが例のキーワードである

>責められているのは、その「社会的責任に対する自覚のなさ」である。

社会的責任」って何さ?

 「社会的責任」で検索してみると、出てくるのはほとんどが「企業の社会的責任(CSR)」という単語である。これは法令を遵守することはもちろん、企業は社会において望ましい行動を取るべきである、という考えである。

https://www.google.com/search?q=%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E7%9A%84%E8%B2%AC%E4%BB%BB

 でもそれって会社のことでしょ。個人はどうなの? ということで調べてみると、先よりは少ないがいくつかはヒットする。しかし「企業の社会的責任」ほどメジャーな言葉ではなく、その定義や義務性もきわめて曖昧である。
 ところが当該note著者はこの定義を曖昧にしたまま話を進めていってしまう。

>「自身の性的嗜好そのものが、加害性を伴っている」という自覚である。

 ここで言う「加害性」とはどういう意味を持ってるのであろう。言葉の意味としては「加害」という名詞に性質を意味する接尾子「的」がついている。「加害の性質のある」ということだろう。
 欲望の性質としては、実行すれば犯罪となるたぐいのものだから、「加害性がある」というのはそのとおりだろう。しかし、「それを自覚しろ」まではわかるが、問題となるのは「それをオープンで公開するな」という主張である。
 まず、加害性のある欲望やその欲望の発散となる表現をオープンで公開するな、というのは意味と筋が通らない。それこそ「海賊漫画や怪盗漫画はどうなの」という話になる。それに対して当該note著者が根拠としていた(つもりな)のが「行為の容易性」である。
 しかし、すでに示したとおり、物理的肉体的に容易だから行為として容易なわけではない。当該note著者は行為の容易性を裏付けるものを全く出してもいない。
 つまり、そもそも「加害性を持つ欲望(の対象となる表現)だから」は妥当な根拠ではない。

>次に、「小児型ラブドールの所持・使用が、実際の児童性的加害へ繋がるのか?」という話。

>これはもう、ケースバイケース!!!としか言いようがないだろう。ラブドールで発散することで、実在児童への性的加害欲求が抑えられる人もいれば、ラブドール使用によって実在児童への性的加害欲求が助長されてしまう人もいる。異論はあるか?ないだろ?

 ここのところで、当該noteの最初に、元のつぶやきにおいて書いていない「表現物の影響の否定」を強調した意味が発生する。「表現物による悪影響があるじゃないか」というためである。

 しかしこの手の議論によく触れている者にとっては笑止千万である。

 これは「限定効果論」と呼ばれる論である。いわゆる「表現の自由界隈」では強力効果論自体を完全に否定しきる者は流石にないが、結果として「強力効果論」で見ると「表現が犯罪率を上げているとする根拠はない」という見方が一般的である。これについては、「結局は何らかのきっかけで犯罪を犯す可能性が高いものがたまたまそれがきっかけで犯しただけであり、それがなくても結果が同じということではないか」「表現物により欲望を発散させ抑えている者もまたいるせいではないか」などの議論がされているが、これまた本題からはずれるので各々調べてみていただきたい。

 いずれにしても、限定効果論を根拠に表現規制を主張するのは妥当ではない、というが現在のもっぱらの見方である。
 「ケースバイケース」をトータルで見た結果として、妥当な根拠とは見らていないのである。

 この「強力効果論」と「限定効果論」の話というのは先にも書いたとおり反表現規制における議論においてはかなりこなされたものであり、強力効果論に触れず限定効果論を根拠として主張するのはまったくの片手落ちとしか言いようがない。

 その後に別のジャンルを譬えとしたものを次々と出して「大喜利大会」と称しているが、正直な話として、上のお粗末な議論のままそのように言うこと自体が「表現の影響の議論」を揶揄する「茶化し」でしかない。

 そしてその中でも繰り返し「社会的責任」と述べているが、その「社会的責任」なるものの正体は最後まで不明である。ただ単に強力効果論を盾に「自覚しろ」と脅しているだけである。

 当該note著者の言う「社会的責任」とは懸念をそれっぽく化粧しただけの、「同調圧力」でしかないのである。

 当該noteはその事をそれっぽく言うためだけに論理と言えない論理で自身の倫理と規範の間を行ったり来たりしていたのである。読んでいて大しけの船に乗っているような酩酊感を覚えた。

 「強力効果論」「限定効果論」の議論に慣れていない者はいざしらず、この手の議論に慣れている者にとっては読んでいて頭の中で警報が鳴り響く思いだったろう。

結論

>小児性愛の話と同じだ。私たちは誰よりも強く、「フィクションが現実に与える危険な影響」について敏感でなければならないんだ。

>オタクという”当事者”なのだから。私たちのふるまいを見て、社会はコンテンツとその嗜好者の安全性・社会性を図っているのだから。

 前述までの展開を踏まえて書けば、これは「倫理」であって「義務」ではない。その「義務」でない「倫理」を理論を捻じ曲げ、妥当性のない必要性を演出し、従うべき「義務」「責任」であると主張する。
 そのような倫理が望ましいと思うと主張するのであれば、そのように言えばいいのだ。そのこと自体は否定はしない。現に私の倫理規範的には「センシティブ設定という機能があるのだから、それを利用した方が良かった」と考える。しかし倫理とは根本的に当人の自主性により選択されるものである。「義務である」「責任である」などという主張は倫理ではなくただの「同調圧力」である。
(注意していただきたいのは私は「同調圧力」それ自体の否定を行っていない。ただしそれが「正義」であるとも思っていない)

 また、論理的な妥当性を演出してその倫理が正しいかのように見せる行為は、近年「江戸しぐさ」などで見られた「いいことを言ってるのだから、嘘でもいいじゃないか」という考え方と同じである。嘘は嘘を正当化するためによりたくさんの大きな嘘を引き起こす。
 「いいこと」と思うのであれば「いいことはいい」と言えば良いだけなのにそう言えない。当該noteはタイトルでの主張から中身の論理展開、結論に至るまで妥当性を全く欠いている。

 倫理と自己の規範とごまかしの理屈の中を漂ってるだけの論の展開が、当該noteの実態である。

余談:そして再度の動機


 当該noteの論理展開、根拠においてまったく理路整然としてないし、「騙し」ですらあるというのが私の結論であるが、最後にこの点だけは述べておきたい。
 私が一番不快感を感じるのは、以下の部分である。

>他でもない私たちが、誰よりも誠実でなければならない。

 こう書いている本人が

・元のつぶやきの文意を捻じ曲げて批判をおこなっている
・「オープンで表現してはならない」といいながらきちんと根拠を示していない
・(こちらから見れば時代遅れの)限定効果論に基づく(自主)規制を言い立てており、強力効果論を全く無視している

 と、まったく誠実から程遠い論理展開を行っているのである。
 議論における誠実さとは、言葉遣いを丁寧にすることではない。「レスバ」などと呼ばれる、相手の論破ごっこでも勿論ない。

・相手の主張をわざと捻じ曲げたりせず
・きちんとした根拠と論理に基づき
・妥当な結論を模索する

 そのための作業であり、議論相手はそのパートナーですらある。ツイートにおいては罵倒も控えない私であるが、このことは外していないつもりである。言葉面の綺麗さではなく、きちんとした根拠論理に沿った発言をしているかが議論における「誠実さ」である。

 その意味で、当該noteにはそもそも、誠実さの欠片もない。他に対し理解しようという姿勢も見られない。
 「不誠実の極み」である。
 私にはこのことがなんとも我慢がし難いし、見逃し難いのである。

鉄鍋のジャン ケッペル2

 いや、私は別にゲルマンの血は流れていないんですけどね?

以上。

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