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【期間限定無料】シンカ論:㉗「社会的責任」論を大いに笑おう。

 シンカ論では、これまでもフェミニストや表現規制派の珍発言を色々見て来たが、今回はこれである。何やらバズっていたらしいnoteだ。

 これはとある少年愛者の男性がマンガの形で投稿した、男児型ラブドールの仕様体験記とそれを大いにおすすめする内容のツイートに端を発した騒動について書かれたものである。

 早い話が「オタクコンテンツのバッシングした者を笑うな!服従しろ!」という内容なのだが、言っていることが本当にひとつ残らず間違っているのである。言っておくがこの表現は誇張でもなんでもない。作者、よく途中で我に返らなかったなと思うくらいである。

 さて。
 まずタイトルにもなっている「海賊にはなれないが児童は襲える。だからロリ漫画やラブドールは危険である」という話。ここからツッコミを入れて行こう。
 これは「ロリ漫画やラブドールには性犯罪を助長する!」という主張に対する「それらのコンテンツが犯罪を助長するなら、性犯罪以外の多種多様な犯罪も同じく数え切れないほどの漫画に描かれているが、なぜ実際にそうなっていないのか?」という疑問に対する『答えず』である。

 フィクションは犯罪を助長してなどいないではないか、という疑問に対して「いや、これこれの証拠があって助長している!」というなら答えになっているが、答えずに「そんな反論はするな!」と言い張っているだけなのだ。

 それがこのnoteのタイトル『私は明日海賊にはなれないが、小学生を襲うことはできる。』である。
 これが答えになっていないのは、後述の通り、幾多のツイートで指摘を受けたのは海賊漫画だけでなく、多数の「やろうと思えばできる」犯罪もだからだ。note作者はそれら無数の指摘から「海賊」だけを取り上げて話をそらしているだけなのである。

 ……というか、これってむしろ「ロリ漫画やラブドールは危険」ということの否定になってないか?

 だってつまりはこういうことである。
「『ONE PIECE』は確かに海賊を増やしてはいないが、それは海賊自体なるのが難しいだけかも知れない。でもロリ漫画やラブドールは、扱っている児童性虐待という題材が実行容易であるにもかかわらず、児童性虐待を増やしていない作品である
 ということはむしろ、ロリ漫画・ラブドールこそ『ONE PIECE』以上に安全ということになるではないか!

 この「社会的責任note」の筆者は、海賊の件の類似ツイートとして「ルパンが流行ったら怪盗になるのか」「トミカを買ったら車泥棒予備軍になるのか」なんてのも挙げてしまっている。

その「自分たちへの攻撃」に対するカウンターパンチが先の

「小児型ラブドールを使用することで小児への性加害が助長されると言うなら、とっくに海賊漫画に影響されて大航海時代が来ている」
「トミカを買ったら車泥棒予備軍になるのか?」
「ルパンが流行ったから日本は怪盗だらけだなww」
 
という大喜利大会、冷笑しぐさなんだろう。(略)
現代日本で生活を捨てて船を買って海賊になるのと、その辺を歩いている小学生を暴行するのがなぜ比較になると思うんだ。考えてみてくれ。私は多分一生かかっても海賊にはなれないが、小学生を襲うなら明日にでもできる。その後捕まろうがなんだろうが、児童の心に一生消えない傷を残すことが可能だ。明日にでも。

 いや、車泥棒だって現代日本でそう難しくはないと思うのだが。 

 そう、この人はロリ作品(あるいはその擁護)憎しのあまり「容易にできる犯罪」と「実現のほぼ不可能な犯罪」は違うんだという自分の主張通りの分類を忘れてしまっている!
 我々はルパン三世ばりの怪盗や、モンキー・D・ルフィばりの海賊や、ゴルゴ13ばりの殺し屋には「単になれないだけ」かもしれない。一方で、もしもやろうと思えば幼女を襲ったり、車泥棒や、怪盗とはいかずとも万引きくらいなら容易にできるだろう。しかし、していないのである。

 いずれの罪種においても、漫画をはじめオタクコンテンツの影響で犯罪が増えるなどという現象は起こっていない。国際比較からも通時的比較からもそれが言える。
 オタクに笑われたーなどと逆恨みを口にする前に、そのことを真面目に考え、「表現規制なんて本当に有効なのか?」「犯罪の原因は他にあるのでは?」と立ち止まって考えるのが真の「社会的責任」ではないのか?

もし通り魔殺人鬼が主人公のフィクション作品が大ブームになったら、「子供に悪い影響があるかもしれない」と危惧する声は必ず上がるだろう。

そうならないために作品にレーティングをかけるのは製品元の社会的責任だし、「殺人は絶対に許されるものではない」というメッセージを込めるのはクリエイターの社会的責任である。

そして、そこから漏れた表現があった場合はそれを指摘するのが、コンテンツ嗜好者の社会的責任であると思う。

 そうだろうか?
 本当に社会は、殺人は「絶対に許されない」というメッセージを込める責任などというものをクリエイターに求めており、そうでない作品に指摘をする責任を嗜好者に求めているのだろうか?

 それではここで、国語の教科書にも載って未成年たちの教育に使われている「社会的」信用の極めて高い作品『走れメロス』を思い出してみよう。
 邪智暴虐の王ディオニスは人間不信から暴政と殺戮を繰り返していたと作中明言されている、このように。

「王様は、人を殺します。」
「なぜ殺すのだ。」
「悪心を抱いている、というのですが、誰もそんな、悪心を持っては居りませぬ。」
「たくさんの人を殺したのか。」
「はい、はじめは王様の妹婿さまを。それから、御自身のお世嗣よつぎを。それから、妹さまを。それから、妹さまの御子さまを。それから、皇后さまを。それから、賢臣のアレキス様を。」
「おどろいた。国王は乱心か。」
「いいえ、乱心ではございませぬ。人を、信ずる事が出来ぬ、というのです。このごろは、臣下の心をも、お疑いになり、少しく派手な暮しをしている者には、人質ひとりずつ差し出すことを命じて居ります。御命令を拒めば十字架にかけられて、殺されます。きょうは、六人殺されました。」

 いや、さすがは邪智暴虐と言われるだけあって酷いものである。さて、これほどの大悪人に対し、文豪・太宰治は、教科書にも載っている社会的信用の(略)『走れメロス』は、社会的責任をもってさぞや苛烈な処罰を下したに違いない(フラグ)。
 一体どのような末路を迎えさせたのだったろうか。

「おまえらの望みは叶かなったぞ。おまえらは、わしの心に勝ったのだ。信実とは、決して空虚な妄想ではなかった。どうか、わしをも仲間に入れてくれまいか。どうか、わしの願いを聞き入れて、おまえらの仲間の一人にしてほしい。」
 どっと群衆の間に、歓声が起った。
「万歳、王様万歳。」

 ……社会的責任ってなんだっけ?
 
どうも「クリエイターは殺人を絶対に許さないメッセージを込めねばならず、そうでない作品は非難しなければならない」という『責任』とやらは、あまり社会的に共有されていなさそうである。


さて、次に小児性愛の話をしよう。
 ちなみに元noteの作者は最初に小児性愛者をバッシングすることで「これを擁護するのはヤバイヤツ!」というイメージ誘導をしてオタク批判を有利に進めたかったらしく、note前半はこの小児性愛者叩きに費やされている。
 一般の小児性愛バッシングとも共通する点が多いので、ここにどのような「インチキロジック」が含まれているか、本人の「茶化すな!」という必死の叫びを無視して楽しんでいくこととしよう。

 まず作者曰く、

まず小児性愛は「現実で思いを遂げたら即犯罪」である。

 これは、小児性愛を同性愛などと差別してバッシングする場合に非常によく言われる詭弁である。しかしこれがなぜ詭弁なのかはちょっぴり分かりにくいのが多用される一因ともなっている。

 それは「性欲を発散する」という行為において「実行する」とか「思いを遂げる」とかいう言葉で限定を加えて、あたかも小児性愛の場合は「性虐待」だけがゴールであるかのように決めつけているからである。
 小児性愛とは、おおむね13歳以下の児童に対して性的興奮を覚える性癖に過ぎない。その解消法として何を選ぶかは別段、定義に全く含まれていないのである。ドールであってもいいし二次元であってもいい。
 しかし、それを実在児童との性交とフラットなもの(ここでいうフラットとは倫理的にではなく、実行か実行でないかの区分という意味である)として理解してしまうと、合法的で人畜無害な小児性愛が普通にあり得ることになって都合が悪い。
 
そこで「実行する」「思いを遂げる」という言い方にすり替えて、あたかも実在児童性虐待だけが小児性愛の「実行」であるかのようにレッテルを貼っているだけなのである。

レポート漫画のツイート主は弁明のツイートにて、小児性愛をLGBTQという「性的少数者」と並べ、かつ「性的指向」であると書かれていたが、ちょっとそれは全く違うぞということも明言しないといけない。
(略)
小児性愛は「性的嗜好」である。性的行動の対象にその人固有の特徴がある、という意味で、簡単に言えば「好みやこだわり」に分類される。ジェンダー間での、性的魅力を感じるパターンや性的なアイデンティティを指す「性的指向」とは全く異なる。

 これもあるあるの嘘で、何の医学的根拠もない。
「性的指向は先天的、性的嗜好は後天的」などという説明がつくことがあるが、これも根拠は何もないし、そもそも彼らの中にも後天的変化を体験したと告白している人が実際にいるほどである。

 ではなぜそんなに同性愛を「性的指向」と括りで異性愛者(つまり「普通」の人々。普通と言われたら普通じゃない人が傷つくとかいうクレームは無視するので勝手に傷付いてろ)とくっつけ、それ以外は「性的嗜好」ね!違うからね違うからね違うからね……と根拠なく言い張るのか。

 それは、要するにフェミニズムなどの今いわゆる「リベラル」と呼ばれている勢力が「すでに巨大な人権団体を持っていたゲイやレズビアンの勢力は仲間に欲しかったが、その他諸々の『変態』たちは切り捨てたかった」のである。味方にしたいほどの勢力が彼らには無く、一般人にも引かれて精力的にマイナスになるだろうと打算したのだ。
 しかしそれだけでは反差別どころか差別そのものになってしまうので「性的指向と性的嗜好」という用語を捏造して壁を作ったのである。
 つまりは人権意識のかけらもない、利害むき出しの差別で言い張っているに過ぎないわけだ。

(そもそも小児性加害に関するツイートを公開するのは、ツイッターの規約違反だそうです)

 小児性加害に関するツイートが規約違反なら、この作者のnoteをツイッターで出すことも違反になってしまうのだが。
 実際の規約では「児童の性的搾取に該当するコンテンツやこれを助長する行為」が禁止されているに過ぎない。このnote作者や小児性愛者アンチ達がバッシングした元ツイートももちろん、そんなことをしてはいない。そもそもドールの話であるし、実在児童に手を出す行為については「しないように」言ってすらいる。助長の逆である。

 そしてこれこそが、この作者のような人々の最も気に入らない点なのだ。

だがしかし、あのツイート主は明確に「実在の児童に手を出す前にドールを」と述べている。実在の児童に対する性的欲求を持った上での、小児型ラブドール購入であると明言しているのだ。

責められているのは、その「社会的責任に対する自覚のなさ」である。

 なぜそれが社会的責任に自覚がないことになるのか、noteに説明は一切ない。
 ただ「性虐待をしないことにラブドールなどのコンテンツが貢献している」ことを公開の言論として言うことが許しがたく、「社会的責任」だの「自覚」だの「配慮する姿勢」だの「加害性を理解」だのとふわふわした言葉で責め立てるだけに終始してしまっている。

 なぜそんなに必死?
 大事なのは実際に児童虐待がなされないことではなかったのか?
 それ以外なら誰が何で射精しようと、そうしていることを公言しようとどうでも良いことではないか?
 
 そう、どうでも良い。
 どうでも良い「はず」なのだ。児童の安全を本当に第一に考えているなら。

 そもそも、小児性愛者自身のコンテンツ使用体験記などというものは、本当に「社会的責任感」をもって児童虐待とコンテンツとの関係を考えるならば、実に貴重な情報である。公言するなどころか、大切に掬い上げ、検討して議論するべき問題であろう。

 コンテンツ叩きをする人々はそんなことに興味はない。児童なんて犯されようが殺されようがどうだっていいのである。彼らが怒り狂うのは「もしコンテンツが児童性虐待を減らすのに貢献しているなら、その規制を叫ぶ自分達こそが児童性虐待の助長者という『悪』だとバレしまうから」である。
 その「自分の都合」だけが彼らにとっての重大事であり、本当に児童虐待が減るか増えるかなど彼らは何の関心もないのである。

 自覚だの責任感だのと言葉を飾っているが、要するに「無抵抗であれ」と言っているだけだ。

 コンテンツを「性虐待助長の可能性!」と言いながら無抵抗のファンや作者を好きなだけ叩きたい。自分の正義に酔い痴れたい。
 一方で、逆に自分達のそんな行為こそが性虐待を助長しているのでは? という反問は絶対に受けたくない。受けた場合にどう向き合うか知恵を絞ることすらしたくない。

 そういう「安全ないじめ」への欲求がこうした小児性愛叩きの背景にある。

 それを正当化するために、叩き側は「小児性愛を公言すること自体が、子供や親にとって恐怖である!」と言い張ったりする。ツイッター上で幾らでも見られる通りだ。

 ここで私が思い出すのは、2019年3月頃発生にツイッター上で拡散したデマだ。その内容はこうである。(参考:「女児が公園のトイレで暴行を受け子宮全摘」ネットで拡散、過去にも同様の噂が

超怖い話聞いた…。ママ友の知り合い、夏に6才女児と広めの公園で水遊びしてて、途中女児1人でトイレに行かせたら放心状態で下半身血だらけで母親の元に帰って来たそう…。何者かに性的乱暴を受けており、結局その子、子宮全摘になってしまったと…。

 なんという恐ろしい情報だろう。
 小児性愛者がラブドールで性欲発散を済ませていますどころではない。(子宮全摘出になるほどの大怪我をした6歳児が「放心状態で自力で歩ける」とは恐れ入ったが)

 今、「小児性愛を公言するなんて子供や親への恐怖!」と叫んでぶっ叩いている人々は、さぞこのデマを非難したに違いない。

 ……と思いきや、話は逆である。これを拡散、あるいは擁護していた人々はまさに、今「小児性愛の欲望の公言」をバッシングしている人々と重なっているのである。そしておおむねデマを批判したのは、むしろ小児性愛者やコンテンツを擁護している人々――いわゆる「表現の自由戦士」が多かった。

 そしてそのデマだという指摘に対して、デマ拡散者側が言ったのはなんと「たとえデマでも注意喚起になるからいいんだ」という暴論だったのである。

「小児性愛の欲望が存在すること」の情報はそれだけで子供や親の恐怖になるから公言してはいけない、だって?

 このデマが広まったのは、わずか1年あまり前のことである。つまり他のコンテンツ叩きの理由同様、今度も真っ赤な嘘だったわけである。

 一体、何度同じことを繰り返せば済むのだろうか、この連中は。 

(文責・ヒトシンカ)

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