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唯情 -くらげの唄-

或る初秋の夕暮れ。二人の少女は手を繋ぎながら、紅葉の散る公園の長椅子に腰掛け、大通りの道行く人々を眺めていた。
しばらくして陽が完全に沈み込んだ頃、
「お前さんたちはまだここにいるのかい」
二人の背後から声を掛ける者がいた。
「私はいつもここで寝るんだ」
と続けた。右側に座っている短髪の少女は、大通りを見据えたまま応えた。
「気が向いたら、そのうち退くわ」
左側に座っているおさげの少女は無言のまま振り返り、杖をついている年老いた男性をじっと見ていた。
「君たちは何が不満なのだ」
老人は不満と呆れの混ざったような声で問うた。少しの沈黙の後、老人が口を開いた。
「仕方ない。何か願い事を叶えてあげよう。一人一つだ。そしたらこの場所を私に譲るんだ」
おさげの少女は短髪の少女の顔を見つめた。
「なら、私はくらげになりたいわ」
挑発的な声と表情で短髪の少女が答えた。老人はそう答えた少女を一匹のくらげに変えながら、もう一人の少女にも願い事を言うように促した。おさげの少女は、長椅子の上でなすすべなく横たわっているくらげを両手で掬い上げながら、
「この子を飼いたい。ちゃんと飼育できる環境が欲しいわ」と急いた声で叫ぶように言った。すぐさま、水のたっぷり入ったポンプ付きの水槽が願った少女の前に現れた。
「さぁ、退いた。退いた」老人は杖を軽く振り上げた。おさげの少女はコクリと頷くと、水槽を抱え、髪を揺らしながら、家路を急いだ。少女は走りながら不思議にも高揚感と独占欲の満たされていくのを自覚していた。

 おさげの少女はその晩、自分の願い事はきっと正しくなかったのだろうと酷く悩んだ。くらげは水槽の中をゆらゆらと漂っていた。
 翌朝、少女は本屋に行き、くらげの種類と飼育方法に詳しくなった。少女は咄嗟の願い事に彼女を人間に戻すことと答えればよかったと後悔した。
 少女は本屋から戻り、狭い水の中を漂うくらげを見て、彼女はミズクラゲになったのだと判断した。自分もくらげになるように願えばよかったと後悔した。
 その日の夕方、少女は家から水槽を連れ出し、昨日の公園の長椅子に座ってみた。水槽は少女の太ももの上に載せられた。しばらくすると昨日の老人がこちらに向かって歩いてくるのが見えた。老人はそのまま、少女の左隣に腰掛けた。少女も老人も何も言わぬまま時間が過ぎ、辺りはすっかり暗くなった。
「海に行こうと思うの」
「それがよかろう」
少女は老人の返事に適当に頷き、公園を後にした。その足で駅に向かい、海へと続く街に行くための片道切符を買った。水槽を抱えた少女は二時間ほど列車の揺れと格闘した。知らない街の知らない夜道は少女の足取りを重くした。しばらく歩くと開けた海岸沿いの道に出た。月明かりが海水面に映るのを見下ろしても、夜空の朧な満月を見上げても、少女の心はそれを美しいものだと捉えなかった。少女は波打ち際へ降りていった。少し躊躇ってから、水槽の中に手を差し入れ、くらげを手の中に収めると、海へ向かって走り出した。秋の夜の海水のあまりの冷たさに驚いて上げた、少女の悲鳴のような笑い声が夜の闇に吸い込まれていった。少女に放り出されたはずの水槽は跡形もなく消えていた。

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