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佐藤君のこと

 私が彼と別れたのは、1969年3月25日のことだ。校門の陰から彼は現れて私に向かって叫んだ。「どこでも転校してしまえ。」と悔しそうな声の調子であった。私は、春休みの間に横浜へ引っ越しすることになっていた。最後のその中学の登校であった。

 彼と私は同じ出席番号だった。当時は男子と女子の名簿が分かれているか、上下になっていた。男女混合名標になったのは、平成になってからのことである。同じ出席番号だと、どういうことが起きるかというと、隣の席になること、理科室のような机が縦に並んでいる教室では、向い合せになることが多いということである。

 理科は当時理科1という化学・物理中心の科目と理科2という生物・地学中心の科目に分かれていた。理科1は実験が多いために、常に理科室1で、授業があった。理科1の先生は、危険性のある実験もすることが多かったので、かなり細かいことに厳しかったが、学問に対する姿勢を教えてくれたり、世の中の常識をキチンと話してくれたりする先生で、私はかなりその科目を気に入っていた。最も、文学少女を自負する私は、科学者などにはなる気はもちろんなかった。

 当然、佐藤君は私の目の前にいた。日に焼けた肌、大きな目と真っ白な歯を見せてにっこり笑う様子に私は回を重ねる毎にひかれていった。彼は、サッカー部に所属していて、1年生にしてはかなり上手な方であった。夕方遅くまで練習があり、中学での勉強や宿題には熱心ではなかった。私の方は、好きな科目でもあり、一生けん命に勉強に取り組んでいた。「授業の前に理科の課題ノートを佐藤君に貸してあげる。」のは、私の楽しみになっていた。実験の説明も「佐藤君に教えてあげる」となれば、よく聞いて実験のイニシャティブを取ったものだ。

 一年間のこうした関係の中で、彼がどのくらい私の気持ちを分かってくれたのかは、わからなかった。当時は、バレンタインデーという習慣が日本で始まったばかりの頃であった。友人たちは、「好きならば渡したほうがいいい」とアドバイスしてくれたが、勇気を出してチョコを渡すことはなかった。

 佐藤君は、あの日校門の所で私を待っていて、最後の言葉をかけてくれたのだと思う。夕暮れの校舎の前で、「どこでも転校してしまえ。」と言って去っていく佐藤君の後ろ姿が、今でも私の頭の中にはっきりと残っている。電話番号も住所も、そうお互いの気持ちさえも、教え合わなかった初恋。今でも「ちょっと素敵」と時々思いだしている。佐藤君も今ではおじいさんになっているのかな。

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