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「珠名の森のねむり姫」 第六章(1)

 展示会のレポートの報告をしたが、上の空だった。受け答えがぼんやりしていたので、課長から説教を食らってしまった。
「前橋さん、大丈夫すか?」
 一緒に報告した伊藤に心配された。確かに、集中力が途切れ過ぎていた。
「なんかあったんでしょ」
「ふられました」
 伊藤は「え」と驚愕の表情をし、「なんでですか?」と尋ねてきたが、「仕事中だから今度話すよ」と言って話を打ち切った。
 体を動かしているうちはいいのだが、座って事務仕事をしていると、どうしてもふられたことを思い出し、仕事にならなくなってしまった。
 冷静に考えると、あそこで黙ってしまったのはよくなかったと思った。もう少し、詩穂と話をすべきだった。詩穂から見ると激怒したように見えたかもしれなかった。
 それは良くない。たとえ関係が終わったとしても、あの終わり方はあんまりだ。
 そう、もう僕らの関係は終わったのかもしれないのだ。僕が告白し、詩穂が「付き合うつもりはない」と断言した。今まで通りでいられるはずがない。
 もう、タイピングをまともに打つことさえ難しかった。今日は会社に来ただけでも十分だ。そう思うことにした。
 なんとか仕事をこなすと、車で病院に向かった。
 受付で、詩穂に会いに来たことを伝えた。戻ってきた看護師に「体調不良のため面会できないそうです」と言われた。
「あの、眠っているわけではないんですね?」
 と尋ねると、看護師は「眠られているわけではありません」とだけ答えた。
 会うことはできなさそうだった。
 本当に体調不良の可能性もあるし、単に今は会いたくない可能性もある。いずれにせよ、時間を置く方がよさそうだった。今までも、仕事が忙しい時には、一週間単位で会えなかったこともあった。今は、僕が会う意志があることが伝わればそれでよかった。

 翌日、会社の駐車場で、伊藤に「週末の夜一緒に遊びません?」と誘われた。
 特に予定もないのでオッケーをした。何をするのかは聞かなかったが、「遊ぶ」というのが久しぶりな気がして、少し楽しみになった。
 仕事は相変わらず忙しかった。一つの納期が終わっても、次の納期がすぐにやってくる。果てがない。終わりがない前提で会社の仕事は回り続ける。それでやっと従業員の生活が維持される。見方によっては救われないシステムだと思った。
 週末になるころには疲れ切っていた。眠ってゴロゴロしているうちに時間が過ぎてしまったが、夕方になり、伊藤と約束していたことを思い出した。
 伊藤に集合時間を聞くと、八時と返事が来た。ご飯と風呂を済ませておいてくれと書かれていたので、その通りにする。
 夜八時ぴったりに、伊藤が車で迎えに来た。
「マジ田舎ですね。真っ暗じゃないですか」
 車を走らせながら伊藤が言った。確かに、実家近くには店はおろか街灯すらほとんどなく、真っ暗に近い。
「送られた住所見た時、周りなんもなくて正直引きましたもん。一人暮らしとかしないんですか?」
「そういえば、しようと思ったことないなあ」
「じゃ、金めっちゃたまるじゃないですか」
「まあ、確かにたまってはいくね」
 親からも自分名義で貯金しておくように言われているため、数万のお金を入れる以外はすべて自分のお金になっている。
「ところで、どこに遊びにいくの?」
「俺と遊ぶんだったらナンパに決まっているじゃないですか」
「いや、僕には無理だよ」
「見てるだけでもいいですから」
 気分転換になるように、伊藤なりに気を使ってくれているのだろう。
「会社の人とこうして出かけることはあるの?」
「ナンパはないすね。野球したりとかそういうのはあるけど、正直だるいです」
 車は高速を降りると、繁華街から少し離れたパーキングに止まった。
「すいません。ちょっと歩くんですけど、ここがすごい安いんですよ」
 それから、伊藤はハンドルに大きな鏡をかけると、メイクを始めた。
「メイクとかするんだ」
「ナンパはルックスが九割五分すよ」
 伊藤は手慣れた手つきで、クリームを塗り、眉をかき、リップを塗った。それからワックスで丁寧に髪型を整えていった。
 もともと顔立ちはいい方だと思っていたが、出来上がった伊藤の顔は、アイドルのように綺麗だった。
「すごいね」
「さらに、これです」
 と、伊藤は後部座席から靴を取り出した。
「シークレットブーツです」
「伊藤君は別に背は低くないだろう」
「盛れるだけ盛るのが大事なんすよ」
「なるほど」
「呆れてます?」
「いや、そんなに準備しているとは知らなかった、と思って」 
「こんなんマナーみたいなもんですよ。じゃ、社会科見学だと思っていきましょう」
 もともと伊藤の方が背が高いのにシークレットブーツを履いているので、並んで歩くと、完全に伊藤が頭一個分高くなった。すれ違う女性の視線が完全に伊藤に集中しているのが肌で感じられる。
 駅前の広場は湿度が他の場所より高く感じられた。人々の汗がそのまま空気に溶けたようだった。
 伊藤はすぐに声掛けを始めた。
 十分経った。意外だった。すぐにでも相手が見つかるかと思ったら、立ち止まる人すらいない。中には伊藤が並んで歩いても一顧だにしない女性もいる。
 いったん伊藤が僕のところに戻ってきた。
「なかなかうまくいかないもんだね」
「いやー、こんなの序の口ですよ」
「無視する人もけっこういるんだね」
「前橋さん、ナンパって基本迷惑行為ですよ。無視するのが普通ですから」
「それ分かっているなら、なぜやるの?」
「悪徳の林檎ですよ」
 伊藤が声掛けに戻った。伊藤以外にも数名女性に声掛けをしている男がいた。ホストのような男もかなりいかつい男もいた。
 いつの間にか、伊藤が立ち話をしていた。女性の顔が見えないので、感触がつかめない。二人ともスマホを取り出したが、そのまま別れた。
 伊藤が戻ってきた。
「いい感じだったんじゃない?」
「いやー、番ゲがせいぜいでした」
 その後、伊藤は二名の番ゲ、つまり番号をゲットした。
「今日の調子はどう?」
「あんまよくないですね。どうです、前橋さんも一回やってみません?」
「僕は無理だよ」
「別に深く考えなくていいんですよ。ホテル連れ込もうとかじゃなくて、暇なら飲みませんって感じでいいじゃないですか」
「そうかな」
「ほら、あのスマホ触っている女、絶対声掛け待ちですよ」
 伊藤に背中を押され、歩き出してしまった。そのまま女性に近づいていく。だが、彼女が顔を上げた瞬間に、ノープランであることに思い至った。
 数秒の沈黙の間に、とにかく何か話さなくてはと頭を巡らせた。
「こんばんは怪しいものではありませんいや怪しくありません私は本当に怪しくありま」
 早口でまくし立てると女性は俊敏に去っていった。
 伊藤のもとに戻り報告すると、頭を抱えてしまった。
「それじゃ、ぶっこわれたAIでしょ。怖すぎますよ」
 それから十分後に、伊藤は声をかけた女性と連れ立って歩き出した。数分して「一杯おごってから打診します」と連絡が来た。
 別れた場合はそれぞれ自由に過ごすことになっていた。
 しばらく、駅前の広場にいることにした。いつの間にかホスト風の男はいなくなっていた。いかつい男が、己の肉体を持て余すように歩き回っていた。
 道行く人を眺めるのにも飽きて移動しようと考え始めたころ、伊藤が戻ってきた。
「帰ってこないと思ったよ」
「なごんでたら、彼氏から連絡が来ちゃいました。まあ、ホテル入ってから連絡来るよりよかったかもしれないです」
「彼氏がいるのについて行くんだ?」
「そんなの普通すよ。普通」
 顔に水が当たった。雨が降り出したのだ。伊藤が「うわ、だるっ」と言った。
「これからどうする?」
「んー、雨降っているし、今日は乗らねえな。サウナかなんか行きます?」
「そうしよう。実はけっこう疲れているんだ」
「実はおれもです」
 サウナに入り、ぐっすりと眠った。一度体を緩ませると、体が休むことを思い出したみたいで、サウナを出てからも眠たかった。
 ラーメンを食べに行って帰路についた。
「それで、ふられたってなんだったんすか?」
 伊藤が話を振ってきた。僕も、いくらか冷静に話せるようになっていた。
「まあ、切り替えていくしかないすね」
 伊藤の反応はあっさりしたものだった。
「もう確定なのかな? 理由とかはっきり聞いてないんだけど」 
「まあ聞いたところで、結論ははっきりしているわけじゃないですか。その若いやつと付き合おうが付き合わなかろうが、前橋さんとは付き合わないって話すよ」
「そうだね」
 客観的にみればそうなのだろう。たぶん、本当に、ただそれだけなのだ。
「つーか、前橋さん、真面目過ぎ。それだと相手も疲れちゃいますよ」
「そうかな」
「真剣に聞くと、相手にも真剣を強いることになるっつーか。人間て、わりとだらっと生きているじゃないですか。相手の言葉とか相手の態度も、いろんな揺らぎがあって、適当に流してやるほうが一緒にいやすいっていうのあると思うんすよ」
「君の言う通りだと思う」
「ほら、また真面目に聞いてる」
 伊藤が苦笑した。


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