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「珠名の森のねむり姫」 第一章(4)

 部屋といっても四人の共同部屋だった。二人はカーテンを閉めていた。詩穂の向かいのベッドには老婆が寝ていて、傍らに座った女性が大あくびした。
「おや、珍しい」
 女性はあくびを見られたことを照れるでもなく、もう一度あくびをし直した。
「ま、ごゆっくり」
 と言うとカーテンを閉めた。
「ここが、私の場所です」
 少し照れたように詩穂が言った。ベッドの隣の棚には本が二冊とノートと飲みものが置いてあるだけだ。生活感がなく、殺風景で物寂しい。このベッド周りを、詩穂は「私の場所」と表現した。世界に自分の居場所はここにしかないというように。
 置いてあったパイプ椅子に腰かける。詩穂はベッドに腰かけた。なぜだか隣で歩いている時より近くにいるような感じがして動揺する。
「だいたいここにいて本を読んだりストレッチしたりしているの」
「ストレッチ?」
「こうよ」
 詩穂は、膝を曲げたり前屈をしたりした。脚を上げた時に白い太ももがあらわになり、思わず目をそらした。
 詩穂は僕のそぶりに気づいた様子はなかった。
 しばらく雑談すると、重要なことを思い出した。
「今更だけど、連絡先を教えてほしい」
 彼女は言葉を咀嚼するように二、三度まばたきをし、神妙な表情で言った。
「それは、できないわ」
 きっぱり言われたことにショックを受けた。女性からの拒絶には慣れているつもりだったが、これはずいぶん堪えた。
 提案するのが早すぎたのだろうか。いや、きっとはじめから、詩穂にとって僕は「なし」判定なのだろう。
 動揺を悟られない様にしながら詩穂の顔を見ると、唇を噛んでいる。数秒眺めて、笑いをこらえているのだと気づいた。
「だって、私、連絡できる物、何にも持ってないもの」
 と、種明かしするように詩穂は言った。
「え?」
「解約したの。入院して、来る人もいなくて、特に連絡を取りたい人もいなかったから」
「不便じゃないの?」
「普段は全然困らないわ。でも、いざって時には不便ね」
 彼女はまったく困ったようにみえなかった。むしろ、重たい荷物を手放した人のようなすがすがしささえ感じられた。
「僕は、君と連絡を取りたいと思っていたんだ」
「……そう」
 彼女は目を伏せた。困惑しているみたいだった。
 あきらかに僕と詩穂の気持ちの熱量には差があった。僕が会いたいと思うほど、話したいと思うほど、詩穂は僕を求めていないのだ。
「ごめん。気にしないで」 
 ウザったく思われないように引くことしかできなかった。
「私、しばらくここから出られないから、わざわざ連絡を取り合わなくても、所在地は常にここですよ」
「居場所を確認したかったんじゃなくて、もっと、会ってないときに会話ができればと思ったんだ。ふと思ったことを送ったりして」
「なるほど」と詩穂は言った。そこで言葉が途切れたので、彼女がどう思っているのかが分からない。
 詩穂が体温を測り、ノートに何かを書いた。その瞬間思いついたことを、僕は反射的に口に出した。
「交換日記、しよう」
 詩穂は僕の言葉に応えずに、じっとノートを見つめていた。それからふふっと笑った。
「実は、ノートを見た時に同じことを思ったの。交換日記って面白そうだなって」
「それなら決まりだね」
「分かったわ。でも、ノートはどうする? わたしが持っているノートは書きかけなのよ」
「僕が用意するよ。最初は僕が書くね」
「ありがとう。でも、私に書くことなんてあるかなあ。ずっとここにいるだけだし」
「なんでもいいんだよ。食事がまずかったとか、本の感想でも」
「分かった。ちなみに、食事はとっても美味しいのよ」
「そうなんだ。うらやましい。じゃ、明日にでも持ってくるよ」
「あー、土日は親が朝から来ることがあるの。だから、来週でもいい?」
「分かった。来週は昼勤だから、夜来るよ」
「ちなみに、夜九時完全消灯だからお気をつけて」
 枕元に一冊の本が置いてあった。「百人一首」と書いてある。
「すごいな。和歌まで詠むの?」
「ああ、歌の技法とかはまだよくわからないんだけど、歌を詠んだ歌人の人生と合わせると、ちょっとは情緒が分かるようになってきたわ」
「いとおかし」
 詩穂は軽く笑った。
「清少納言の歌も入っているのよ」
 そろそろ帰り時だと思いながら、ずるずる話していると、看護師が「おはようございます」と声をかけて部屋に入ってきた。
「あ、志村さん、おはようございます」と詩穂が声をかけた。
 志村と呼ばれたのは、ショートカットのすっきりした顔の女性だった。
「おお、早川さん、ひょっとして彼氏?」
「違いますよ」
 詩穂は少しも動揺することなく否定した。
 志村さんは僕を見ると、「あのー、彼氏じゃない人、ちょっと外に出てもらってもいいですか? 他の方がカーテン開けづらいですし」
「それじゃ、時間も時間なので帰ります」
 僕が軽く手を挙げると、詩穂も笑顔で右手を挙げてくれた。同じ動作をしてくれたことで、僕たちは友達なんだと、嬉しく思った。


#創作大賞2024 #恋愛小説部門

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