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「珠名の森のねむり姫」 第二章(3)
ある日、消灯時間が近づいたころになると、詩穂がそわそわしだした。本人は隠しているつもりなのかもしれないが、隠そうとしている姿が余計に彼女の気持ちを反映していた。
「どうしたの?」
「え?」
「何か言いたそうだよ」
「分かる?」
「すごく分かるよ」
詩穂がおそるおそるといった様子で切り出した。
「来週の日曜日、予定ある、かな?」
「ないよ。どうして?」
「外出許可が出たのだけれど、一緒にすごしてもいい?」
詩穂はこわばった顔をしていた。緊張しているのだと気づくまでに少し時間がかかった。
「もちろんだよ」
「よかった」
詩穂が大きく息を吐いた。
「こういうことを頼むのって普段ないからドキドキした」
「外出に何か制限はあるの?」
「門限が夕方六時、ということ以外に縛りはなかったはずよ」
「どこに行きたい?」
「どこでも。前橋君は行きたいところはない?」
「今すぐは思いつかないな。早川さんは?」
「私も思いつかない」
沈黙が降りた。そこで僕は冷静になった。
「え、一緒に出掛けるってことだよね?」
「そういうことよ」
「嬉しいよ。とてつもなく嬉しいよ」
詩穂は「そんな大げさな」と苦笑した。
周りの人が立ち上がり始めた。消灯時間である。
「それじゃ、どこに行くか決めておく。これは宿題ね」
と、詩穂は微笑みながら言った。
自宅に帰り考えてみたが、良い案は浮かんでこなかった。ふだん週末になるとへとへとに疲れており、できる限り眠ったりごろごろしたりするのが通例だ。親から頼みごとをされればそれをこなし、なければ買い物や映画に行く。それが僕の週末だ。我ながらなんと面白みのない男だと思う。
伊藤というよく話す同僚に相談することにした。
「前橋さん彼女出来たんすか?」
と伊藤は言った。
「そういうわけじゃないんだ」
「あー、分かります。まだ狙っている段階すね」
伊藤はなんだか楽しそうだ。
「無難なのはドライブですね。気持ちのいい道を走って嫌な気分になる人はいないですよ」
伊藤は人気と言われるドライブコースを教えてくれた。
「ここ、途中にいいホテルあるんすよ」と耳打ちされる。
「いや、そういう関係じゃないんだ」
「へえ。でも、最初はみんなそういう関係じゃないですからね。チャンスは逃さないように」
病院でドライブの提案をすると、詩穂はとても喜んだ。
「いいね。気持ちよさそう」
「人気のドライブコースがあるらしいんだ」
「へえー。何かいいポイントがあるの?」
「ほ、」
「ほ?」
「いや、ほとんど自然ばっかりだから逆に気分がすっきりするらしい」
「いいね、いいね。楽しみになってきた」
「途中でご飯を食べるとしてもまだ時間が余るんだ。早川さんは行きたい場所はなかった?」
途端に詩穂の表情が暗くなった。
「ごめんなさい、考えたのだけど、全然思い浮かばなくて。私ってつまらない人間よね」
僕は思わず笑ってしまった。
「笑うほどですか?」
「僕も同じことを考えたんだよ。自分はなんてつまらない人間だって。ドライブというのも人から教えてもらっただけで、自分で考えてもいいプランが思い浮かばなかった。だいたい、休みの日もごろごろしているうちに過ぎていくんだ」
「時間を有効に使うって難しいね」
「そうだね」
「前橋君は、休みの日、何をすることが多い?」
「ふだんなんの予定もないときは映画にいくこともあるけれど」
「映画、いいね!」
詩穂は乗り気になったが、僕はあまりいいプランだとは思えなかった。
「せっかく出かけるのに二時間も映画を見るのはもったいなくないかな?」
「そんなことないよ。私、映画館で映画なんてもう何年も観てない」
ハッと気づかされた思いだった。僕が何気に享受している自由を、詩穂はほとんど受けられていないのだ。
もっと詳しく病状について聞きたかった。僕は詩穂について知らなすぎる。状況が分かっていないから、一緒に出掛ける計画を立てるのにも、こうして意識の齟齬が産まれてしまうのだ。
「はやかわ」
「今はどんな映画をやっているのかな?」
詩穂はウキウキした様子で尋ねてきた。それで、僕は何も言えなくなった。
「調べてみるね」
僕は、スマートフォンで、県内で上映されている映画の一覧を見せた。
「あ、この映画がいい」
「それでいいの?」
「たしか、古い名作、じゃないかしら?」
「そうだよ。だけど、せっかく映画を観にいくなら最新の設備が整った映画館で見たほうがいいんじゃないかと」
「私は最新作や派手な音響にはこだわらないわ。あ、そうね。前橋君は観たい映画はないの?」
「僕も一度は劇場で観てみたいと思っていた映画なんだよね」
「なあんだ。じゃ、これで決まり!」
僕らが観にいく映画は、リバイバル上映の「アパートの鍵貸します」になった。
家に帰り、週末に思いを馳せた。少し前までは、詩穂と二人で出掛けることなんて夢にも思っていなかった。人生は、思いもよらない幸運を運んでくることがある。
大切な一日にしよう。そう誓った。
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