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「珠名の森のねむり姫」 第九章(2)
それは日曜日だった。特に連絡があったわけではないけれど、病院に行こうと思った。
病院に着いた。僕は中庭のベンチに座った。
いつ来てもここは気持ちのいい場所だった。喧騒から離れ、静寂が降りている。散歩する人もどこか絵画の中の人物のようで、音それ自体が身を潜めている。
柔らかな風が頬を撫でていった。
久遠が歩いてきた。おぼつかない足取りで、まるで夜明けをさまよっているようだった。
「久遠君」
呼びかけて腕をつかんだ。久遠は、安堵した顔をして、僕によりかかった。
「会えました」
と彼は言った。誰、とは言うまでもなかった。
僕たちは中庭の一部であるようにそこに静止し、そのまま待った。少しも苦ではなかった。もう何ヶ月も待っているのだ。あと数分や数十分待つことなんて、物の数にも入らない。
小さな女の子がやってきて、池の中に手を入れた。「冷たい」と言って笑っている。母親が女の子を抱えて池から離し、ハンカチで手を拭いて去っていった。誰もいなくなった池の水面がゆらゆらと波打った。水面に光が反射し、白が揺れた。
あまりの眩さに目を閉じた。瞼の裏まで白に染まった。その眩い白い世界から、詩穂が現れた。
詩穂は、僕らの前に立つと、深々とお辞儀した。
「大変お待たせしました」
僕は、声も出せないでいた。久遠は、「寝すぎ」と言った。
僕らはベンチに腰を下ろした。
久遠は、夢の中で確かに詩穂と出会ったそうだ。
「光が届かないくらい深い海の中にいました。呼吸はできるんですが、体が浮き上がろうとするのを抑えるのが大変でした。薄く光る貝殻を見つけました。それを開くと、中に詩穂さんがいました。俺が肩を叩いて起こすと、詩穂さんは眠たげに目をこすりました。そのまま手を引いて、二人で水面を目指しました。
光が届き、海が明るくなったころから、俺の体が重くなり始めました。もう少しで出られるというところで、いくらかいでも進まなくなりました。だから、俺は詩穂さんの手を放しました。
俺の体は深海へと沈んでいきました。でも、それでいいんだと思いました。だって、俺は詩穂さんに目覚めさせてもらったんだから。お返しするだけだと思いました。
そうしたら、詩穂さんが戻ってきたんです。彼女は俺を抱きかかえて上っていきました。自分の体が綿みたいに軽く感じられました。結局、俺はまたしても詩穂さんに助けられたみたいです」
久遠はそう言って最後ははにかんだ。
詩穂は腕を組んで考えて、「うん、覚えていない」と言った。「でも、夢の中で久遠君に出会った気がする」と、久遠に微笑みかけた。
とにかくよかったと思った。今回の眠りは、僕が再会してから一番長かった。
詩穂の両親は、これまで何度もこういった危機を乗り越えてきたのだ。なんて苦しい時間なのだろう、と思った。
それから、詩穂と久遠は長い眠りから目覚めた時の感覚を語り合い始めた。「そうそう」と楽しそうに相槌を打つ詩穂の横顔を眺めた。
しばらく話すと、検査があるということで、二人は連れ立って院内に入っていった。
二人を見送った後、僕は一人きりで庭を歩いた。線をなぞるように歩道を歩き、なぞり終えると車に乗った。
車を走らせながら、ぼんやりと考え事をした。
一説によると、六歌仙である在原業平と小野小町、そして文屋康秀は交流があったらしい。もし、僕が、文屋康秀の立場で、稀代のプレイボーイと絶世の美女に挟まれていたら、よき友に恵まれたと喜ぶより、劣等感に苛まれるかもしれない。
文屋康秀は、百人一首にも歌が取られている。
「ふくからに 秋の草木の しをるれば むべ山風を あらしといふらむ」
技巧的にはよくできているとのことだが、荒々しい山の風を嵐という、ただそれだけの意味らしい。いわば、駄洒落だ。一方、百人一首に取られている在原業平の歌は、
「ちはやぶる 神代もきかず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは」
ぱっと聞いただけで、美しいと思う。美しさに、打ちのめされる。
はっきりしたと思った。詩穂と結びついているのは、久遠なのだ。そして、それを隣で見ているのは、やはり辛すぎる。
帰宅し、詩穂との交換日記を開いた。
そこには、決して交わらない僕らの生活が書いてあった。
楽しかった。本当に、楽しかった。
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