見出し画像

「珠名の森のねむり姫」 第二章(2)

 詩穂が眠りについてから二ヶ月ほどした頃に、木村さんから「詩穂が目覚めた」という連絡が入った。
 すぐにでも飛んでいきたかったけれど、仕事をほっぽり出すわけにもいかなかった。夜勤を終え、引継ぎを済ませると、車に飛び乗った。
 朝日の中を走らせる。詩穂が生きている。目を覚ましている。それだけで、こんなに嬉しい。
 駐車場に車を止めると、病棟へ走っていこうかと思ったが、ふと考え直し、中庭を通ってみることにした。
 詩穂がいた。ベンチに座って空を見ていた。
 本当にいたんだ。感激のあまり、抱きしめてしまうかもしれない。
手を振って駆け寄る。
 詩穂も僕に気づき、笑顔で手を挙げた。
 息を切らせて駆け寄った僕のことを、詩穂は心配になったようだった。
「大丈夫?」
「うん。早川さんこそ、大丈夫?」
「はい。ちょっと寝坊したみたいですね」
 詩穂は、舌を出した。
 なんというか、抱きしめ合うとかいうテンションではなさそうである。
 それから、ベンチで座って話をした。詩穂は、ちゃんと伝えきれなかったことを詫びた後は、いつも通り本の話をした。
 話していて、ようやく気づいた。詩穂からしてみれば、ただ寝て起きた、という時間感覚なのだ。だから、二ヶ月焦がれた僕とは、明らかに意識にズレがある。
「はい、これ書きました」
 と、詩穂が交換日記を渡してくれた。何気ない日常がまた始まった。でも、分かっている。この日常は、ある日突然、ふっと消えてしまう可能性を秘めたものなのだ。
「中学の話を書いてくれたから、少し思い出したよ。図書館の感じとか、隣に座っていたこととか、肌感覚として戻ってきたのが、嬉しかった」
「それはよかった。僕も書きながらその時のことを思い出したよ」
「私たちって実はけっこう仲良かったんじゃない?」
「僕自身はそのつもりだったけど、君が違うと思っていたらと心配だったんだ」
「なあんだ。前橋君は心配性だね」
 詩穂は、遠くを見つめるような眼をした。
「思い出すってことは、忘れているってことに気づくのと背中合わせなのかな、とも思った。私、吹奏楽部のこと、ほとんど思い出せないの。教室にみんなといるのをイメージくらいはできるんだけど、そこに自分がいたっていう実感がなくて」
「思い出話をするのはつらい?」
「ううん。今はちょっと悲しいかもしれないけれど、話しているうちにもっとはっきり思い出せるかもしれない。そうしたら、きっと嬉しい」
 風が僕らを撫でて、詩穂の髪を揺らした。

 工場の休憩所に行くと、麻友がゲームをしていた。僕が座って本を開くと、
「ちょっと話しかけてもいいですか?」
 と顔を寄せてきた。
「いいよ」
「何かいいことありました?」
「どうしてそう思う?」
「だって、ニコニコしていますよ」
 自分では意識していなかったけれど、態度に出ていたみたいだ。
「実はね、病気の友達の状況が改善したんだ」
「へえー、それはよかったですね」
「うん」
 麻友はこの場所に毎日来ているらしい。たまには他の人と交流したほうがいいんじゃないかと提案したが、「元々仲間外れみたいなもんなんで、中途半端に近寄るより、このままの方が楽です」と言っていた。

 再び、仕事帰りに病院を訪ねる日々が始まった。そうはいっても、昼勤の時には、消灯時間に間に合わないことも多かった。製造部としての残業時間は決まっているので読みやすいのだが、僕の場合は事務仕事もあるため、立て込んでいると間に合わなくなってしまう。明日は行く、と伝えておいて病院に行けないと、申し訳ない気持ちになった。だけど、詩穂自身は今も連絡手段を持つ気はないらしいので、予定の変更も連絡の取りようがなかった。


#創作大賞2024 #恋愛小説部門

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?