見出し画像

「珠名の森のねむり姫」 第三章(2)

 その日、交換日記を受け取ると、詩穂は「注意事項があります」と言った。
「はい」
「お願いが書いてあります。本当は口頭で伝えるべきなんでしょうが、恥ずかしいので、文章にしました。変なテンションになっていたらごめんなさい」
 なんだか必死だなと思いながら受け取った。
 いつもは家に帰ってからノートを開くのだけれど、先ほどの態度が気になったので、車の中で開いた。
「眠り姫の童話ってあるでしょう。あれからちょっと連想したんですが」
 と前置きの上、こう書いてあった。
「私がまた長く眠ってしまったら、あなたのキスで起こしてくれませんか?」
 その後には、ふざけているのではなく、新しい刺激を与えることで状況が改善するかもしれないこと、了承してもらえれば、親にも話を通しておく、と書いてあった。
 正直なところ、はじめは面食らってしまって、判断ができなかった。
 眠り姫の童話は、細かいあらすじは知らないけれど、王子様のキスで目覚めるというイメージはあった。
 僕には、特に断る理由はなかった。ただ、オーケーを出すにしても、詩穂の様子を見ながらの方がいいと思い、交換日記には返事を書かないことにした。
 仕事が立て込んでいて、次に会えたのは三日後だった。受付で待っていると、詩穂が歩いてきた。僕から見ても、若干緊張しているのが分かった。
 談話室に座ったが、すぐには切り出せなかった。最近の仕事がどうだという話をしていたが、話している僕も、聞いている詩穂も、二人とも上の空であることは明らかだった。
「あの、提案のことだけど」
 と切り出した。
「はい」
 と詩穂は言った。
「本気?」
 と尋ねた。
「変な提案してごめんなさい」
 と詩穂は頭を下げた。「なしなし。忘れてください」と言った。
「いや、本気なら、別にいいですよ。いいですよというか、いいんですか?」
 自分でも動揺してまとまりのない言葉になった。
「私は本気です。お願いしたいと思っています」
 と詩穂は言った。
「それなら、お引き受けします」
 と僕は答えた。お互いかしこまった感じがおかしくて、顔を合わせて笑ってしまった。

 詩穂がなぜあんな依頼してきたのか分からなかった。ただの気まぐれなのか、それとも、もっと切実な何かなのか。
 ただ、確かなことは、まるでおとぎ話のようなことを、詩穂は僕らの間に放り込んでくれた。おとぎ話は僕らの中で生きている。いや、僕らは、おとぎ話に生かされているのかもしれない。

「夜をこめて 鳥の空音は はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ」

六十二番。清少納言の歌だ。国語の授業の印象からか理知的な人のイメージがあったけれど、その通り機知に富んだ歌らしい。親友の藤原行成と夜中まで談笑した経験を、歌のやり取りで恋の駆け引きとしてじゃれあった。日常も、扱い方次第では小さな冒険になる。

 一ヶ月ほど経過した。依頼が宙に浮き、曖昧に忘れようとしていたころ、詩穂が眠りについた。
 僕は、詩穂の母親の洋子さんの電話番号へ連絡した。実行するときには連絡してほしいと言われていたのだ。洋子さんは「日曜日に来てほしい」と言った。
 日曜になり、受付で詩穂の面会を告げていると、洋子さんがやってきた。
 まずは、僕と洋子さんが談話室で話すことになった。
「娘から聞いています。大変なことをお願いしてすみません」
 と彼女は言った。僕の方が恐縮してしまった。
「あの、本当にいいんですか?」
「お願いします」
 洋子さんは、まっすぐ僕を見ていた。「ただ、すみません、カーテンを閉めて、私は立ち会わせてもらう、という条件でいいですか?」
「分かりました」
 僕は、彼女とともに、詩穂の病室に向かった。病室の前には、父親の良治さんが立っていた。僕は立ち止まって、礼をした。彼も頭を下げた。
「ニヤニヤはしないでくれ」
 と彼が言った。そういうつもりはなかったけれど、「すみません」と謝って、口元を引き締めた。
病室の中に入った。カーテンをくぐって中に入った。
 詩穂は、目を閉じて眠っていた。ベッドが角度をつけられ、上半身を起こされていた。
 僕は、洋子さんを見た。彼女がうなずいた。
 目を閉じた詩穂の顔は、何かを待っているようでもあったが、やっぱりただ深い眠りの中にいるだけのようでもあった。
 顔を近づけていった。
 唇と唇が触れ合った。詩穂の唇、それは優しく柔らかな抵抗だった。
 顔にささやかな風を感じた。詩穂の寝息だ。その無遠慮な風が、それほど僕らが近くにいることを知らせた。
 唇を離した。
 声をかけることなく待った。
 助走なしの跳躍のように、それは突然起こった。
 詩穂の目が開いたのだ。
 あまりにも自然に行われたため、いつが眠りの終わりでいつが目覚めの始まりだったのか誰にも分からなかった。
 目を覚ました詩穂が最初にしたことは、あくびだった。寝ぼけ眼で、よく状況を把握していなかった。
 すすり泣く声が聞こえた。洋子さんだった。母親が泣く姿を見て、それから、僕が立っているということの意味を理解した詩穂が、僕を見つめた。
 僕は、ゆっくりとうなずいた。
 詩穂は微笑をたたえ、おそらくこの場にいる全員に向けて、「ありがとうございます」と頭を下げた。


#創作大賞2024 #恋愛小説部門

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?