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「珠名の森のねむり姫」 第十章(6)

 詩穂の退院日が一ヶ月後に決まった。それに合わせて、僕らは生活を整えていった。
 まず、洋子さんが仕事を辞めた。万が一何か起きた時に常にサポートするためだ。
 週末には、みんなで家の掃除や点検を行った。
 はじめは気づかなかったが、家の中は、詩穂の看病がしやすいように相当リフォームされていた。
 大きな可動式ベッドはもちろんだし、部屋の段差はならされ、浴室などに移動がしやすいようになっていた。
 多大な負担、と詩穂は言っていた。詩穂の両親は、詩穂の看病のために、金銭的に労力的に負荷を追ってきた。それは間違いないだろう。十年という時間を、そのようにして過ごしてきたのだ。
 これからは、詩穂にかかる医療費は僕が持つと申し出た。リフォームのローンも、一部僕が肩代わりすることにした。決して安い金額ではなかったが、僕の給料で十分支払いしていける額だったのはよかった。
 詩穂の居場所ができていく。そう思うと、早く迎えたくなった。
 僕が生活するスペースは、さすがにすぐに作ることはできないため、僕はこれまで通り自宅に帰り、詩穂は基本的に自分の家にいるという基本方針が固まった。
 そして退院日が来た。僕と詩穂と洋子さんが、お世話になった人に挨拶をして回った。ただ、シフトや業務の関係で会えなかった人もいた。
 運よく志村さんとは会うことができた。日記の頃から何度も助けてもらった。
「おめでとうございますー」
 志村さんは泣きながら詩穂を抱きしめた。いい人に出会えた、と思った。
 中庭を抜けていく。これからは、眠りの病が発症しても基本的には自宅で看ることが決まっている。もう二度とここを歩くことはないかもしれない。
 少し時間をもらって、二人で歩かせてもらうことにした。
「ここでお話するの好きだった」
 と詩穂が言った。
「僕もだよ」
 詩穂がベンチに座った。僕も隣に腰を下ろす。
「ここで再会したんだね」
「うん。君が座って本を読んでいた」
「声をかけてくれてよかった」
「不審者扱いされると思っていた」
「どちらかというと、あなたのことを思い出せなくて失礼になるってことで頭がいっぱいだったわ」
「君らしいよ」
 あの日からずいぶん時間が過ぎたような気がした。「行こう」と詩穂が言い、僕らは病院を後にした。

 家に着くと、詩穂は一通り室内を見て回った。
「外出の時にたまに帰っていたけど、ちゃんと暮らすのは久しぶり。なんだか不思議な感じ」
「まだ実感湧かない?」
「うん。でも、暮らしているうちに湧いてくるでしょう」
 詩穂が、自分の部屋から「新郎さん、いらっしゃい」と手招きした。
 なんのために呼ばれたのか分かっていた。僕は部屋に入り、扉を閉めた。
 詩穂が箱を取り出した。僕も同じ形の箱を取り出した。
 そして、指輪を取り出す。掌に乗せた丸い輪は、本当に小さい。
 こうして眺めるのは、記念撮影以来だった。病院を退院したら指輪をはめようと決めていたのだ。
 詩穂が僕の指に指輪をはめ、僕が詩穂の指に指輪をはめた。
 僕と詩穂は、おでこを合わせた。笑いたくもあり、泣きたくもなる瞬間だった。僕らの新しい生活が始まったのだと思った。


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