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「珠名の森のねむり姫」 第一章(5)
病院帰りに本屋に寄った。文具のコーナーへ行き、ノートを手に取った。
レジに向かう前に、文庫本の棚を見に行った。昔はそれなりの頻度で行っていたはずだけど、最近はめっきり足が遠のいていた。
漫然と眺めていると、「私の百人一首」という本が目に留まった。パラパラとめくると、一首毎に感想が書いてあるみたいだった。これなら読みやすそうだと思い、合わせて購入することにした。
好きな人と話を合わせるために本を買った。そんな自分がこそばゆかった。
家に帰り、軽く食事を取り、眠った。出勤時間より早めに目が覚めたので、横になったまま、「私の百人一首」を開いた。
まずは、目次を眺めてみる。詩穂の言っていた清少納言以外にも、紫式部や小野小町など、僕でも知っている名前がいくつかあった。
本をめくって、試しに一つを読んでみることにした。
「君がため 惜しからざりし 命さへ 長くもがなと おもひけるかな」
意味はなんとなく分かる。長生きなんて思ってもみなかったけれど、あなたと出会って長生きしたくなった、ということだろう。
心情は理解できる気がする。僕も、特段長生きしたいとは思っていないが、恋人や子供など、大切にしたい人、一緒に生きたい人と出会えばもっと生きたいと思うんじゃないだろうか。
作者は、藤原義孝という人らしい。彼の生没年が書いてあった。954年に生まれて、974年没とある。
藤原義孝は、二十歳前後で亡くなっていた。昔の人は寿命が短いと思うけれど、彼は中でも短命ではないだろうか。
若くして亡くなった人がこの歌を詠んだと知ったら、胸に迫るものがあった。これは叶わなかった願いの歌なのだ。
ハッとして時計を見ると、遅刻ギリギリの時間だった。菓子パンを持って車に乗り込んで、会社に向かった。
昼休みになり、社食でランチを取ると、本を持って会社内を歩いた。ちょうどいい場所があったので、座って本を開いた。
詩穂は今も病室で本を読んでいるのだろうか。本を読み始めたことを伝えたかった。交換日記に書こうと思ったけれど、さすがに工場で開くわけにはいかない。予鈴が鳴ったので、僕は本を閉じて立ち上がった。
日曜日になったので、ノートを机に置いた。
交換日記なんてものはやったことがないので、何から書き始めたらいいのか見当もつかなかった。「はじめまして」はおかしい。相手に向けて書くのだから、手紙のようなものだろうけれど、「拝啓」もおかしい。悩みだすとキリがなかった。結局、本を読み始めた、というところから書き始めた。
シャーペンでノートに文字を書くというのも久しぶりだった。紙の上でするさらさらという音が耳に心地よかった。
いくらでも書けそうな気がしたけれど、1ページ書いたところでキリが良かったのでペンを置いた。いきなり長文を書かれると、詩穂が自分もたくさん書かねばとプレッシャーを感じるのではないかと思ったからだ。すでに長すぎる気もするので、「長文失礼しました。長さは気にせず、早川さんの書きたいだけ書いてください」とつけ加えた。
もうこれ以上は書かないと決意してノートを閉じた。ノートを下にして、腕枕で突っ伏してみる。学生みたいだなと思った。だけど、学生の頃は、こんな恋はできなかった。僕は社会人七年目で二十代も半ばだ。その年になって、今、やっと恋をしていた。
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