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「珠名の森のねむり姫」 第二章(4)

 出かける日までの数日間は、僕にとって何の意味もなかった。映画の上映前に流れる注意映像のように、無関心に流れ去った。
 当日、服装と持ち物を二度確認すると、僕は車に乗った。今日が、僕らがただの友達という関係から先に進む重要な一日になるかもしれない。そう意識すると、妙に緊張してきた。病院に着いた時点でハンドルが汗でべたべたになっていた。
 その緊張は、病室で待っていた詩穂を見た瞬間にピークに達した。
 詩穂は、薄く化粧をしていた。そして、水色のワンピースを着ている。
「少しおめかししました。変かな?」
「まさか。とてもよく似合っているよ」
 僕はそれだけいうのが精一杯だった。
 映画館までは、遠回りをして人気のドライブコースを行くことにした。なだらかな山道を抜けるとぱっと草原が広がる。隣で詩穂が嘆息するのが聞こえた。
「窓を開けてもいい?」
「どうぞ」
 気持ちのいい空気が舞い込んでくる。
「不思議。呼吸しているだけで幸せ」
 同感だった。森林浴をしたようなすっきりとした気持ちになった。

 その映画館は、最新映画も上映するが、名画座もかねており、プログラムのうち1本は古典といわれている映画を上映していた。僕も今までに何度か足を運んだことがあるが、雰囲気のよい好きな映画館だった。
 詩穂は外観を見て、感心したように何度もうなずいていた。
 「アパートの鍵貸します」は、古いアメリカ映画だ。小市民が主人公でとても共感できる。
 映画館に入る前に、詩穂が心細そうに言った。
「ひとつだけお願いがあります」
「なに?」
「もし気分が悪くなったりして外に出たいときは、手を握るから、連れ出してくれない?」
「分かった」
 映画が始まった。ジャック・レモンがコミカルさと哀愁漂う名演をみせていたが、ちっとも頭に入ってこない。隣の詩穂の様子ばかり気になる。
 幸い詩穂は特段体調が悪そうではなく、集中して映画を観ている。
 そして、映画はラストシーンを迎えた。僕はほっとすると同時に、ずっとスタンバイしていた右手が少し寂しかった。
「すごく面白かった。こんなに素敵な映画だったなんて知らなかった」
 詩穂の頬は少し赤かった。興奮しているのだろうか。感慨に浸るように館内を眺めている。
「手をつなごうよ」
 知らずのうちに、僕は声に出していた。詩穂は大きく目を見開いたけれど、静かに微笑むと手のひらを摺り寄せてきた。
 はじめてつないだ手は柔らかかった。
 誰かの温かさを感じながら歩くのは初めてだった。不慣れすぎて、ぎこちない歩き方になった。
 触れ合うということは、話し合うということとはまったく別種の経験だった。掌は掌だけの言葉で直接訴えかけていた。
 帰りの車内は沈黙になることが多かった。車に着いてなんとなく手を離した後、距離感を計りかねているのだ。
 立ち寄ったレストランでも、料理がおいしいなどと話したりはするのだけれど、どこかよそよそしかった。一歩進んだ僕らの関係は、落としどころを見失い、漂っていた。
 帰りは予定通りのコースを走った。草原の中を走っていると、気持ちが和らいだ。
 詩穂は助手席であくびをこらえていた。
「少し眠るといいよ」
「ごめんなさい。お腹いっぱいになったら眠くなっちゃって」
 詩穂が静かになって、そのまま道を走った。
 しばらくすると、詩穂が前方を指さした。
「あれ、なんですか?」
「眠ってなかったの?」
「この夢うつつの状態が気持ち良くて。……森の中にお城が見える」
 彼女が指差したのは、同僚が言っていたラブホテルだった。
「あー、あれはね」
 説明しかけて、少し考えた。
 ひょっとしたら、詩穂は誘っているのかもしれない。中々行動を起こさない僕が、詩穂のことをどう思っているのか、詩穂自身も把握しかねているのではないか。
「入ってみる?」
 と、僕は尋ねた。
「入れるんですか?」
 詩穂の横顔をチラッと盗み見る。相変わらずの夢うつつの表情をしており、ラブホテルだと分かっていてとぼけているのか、本当に何も分かっていないのか判別できない。だが、少なくとも拒絶の意思は感じなかった。
 車を左折し、建物の中に入る。数台の車が停まった駐車場は薄暗かった。
 エンジンを切ると、車内が妙に静かに思えた。


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