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「珠名の森のねむり姫」 第十章(2)

 シックな服を身に着けた詩穂はとても綺麗だった。
「私、変じゃない?」と詩穂が聞いた。
「どこが? とても素敵だよ」
「大人なのにメイクも下手なのよ」
 僕には上手なメイクというのはよくわからなかったが、詩穂の化粧は彼女に合っているように思えた。良さを殺さずに引き立てている。
「うおお、あんまりじろじろ見ないで」
 詩穂は両手で顔を覆った。
 婚姻届けの提出は、なんともあっさりしたものだった。役所に出して受領される。それで終わりだった。
 婚姻届けを出しても、ひとまず帰る場所は病院だった。これは仕方のないことだった。きちんと生活ができるように、徐々に準備していく必要があった。
「病院の人にも報告しなきゃ」
「僕も会社の人に報告しなくては。結婚ってこういうことなのかな」
「そうらしいね。私たち、結婚したのよ。知らなかった?」
 僕たちは顔を合わせて笑った。
「ねえ、もう少しだけ前橋君って呼んでいい?」
「いいよ。僕は詩穂さんって呼んでいい?」
「はい」
 詩穂は小さく手を挙げて答えた。
 実家には豪華な鉢盛が用意してあった。
何度か顔を合わせているが慣れないらしく、両親は、嬉しがっているというより物珍しそうに詩穂を見ていた。
「本当にお嫁さんがうちに来たんだな」と父がしみじみと言った。「息子をよろしくお願いします」と頭を下げた。
「ふつつかものですが、こちらこそよろしくお願いします」
詩穂もまた、同じように頭を下げた。
会合自体は和やかに進んだ。並んで食事をするというのは不思議な感じだった。
 食事がひと段落したところで、母が卒業文集を持ってきた。
「早川さんは何組?」
「五組です」
 文集を受け取り、五組を開く。実は詩穂と再会して以来何度も見返しているのですぐに見つけることができる。
「若い!」
 と詩穂が自分を見て言った。
「そりゃねえ」
「若い、というかあどけない、のかな」
 詩穂にとっては、このころの自分はもはや別人という感覚なのだろうか。
「前橋君は?」
「僕は一組だな」
 なぜか仏頂面で写っている僕を見て、詩穂は「可愛い」とほほ笑んだ。
「さて」と母が立ち上がると、「お片付け、私も手伝います」と詩穂が立ち上がった。
「違うのよ」と母が苦笑する。
「俺が海老を揚げるんだ」と父が意気揚々と言う。
「もう少し待っててね」と母が言った。
「それなら、私、みたいところがある」
「どこ?」
「前橋君の部屋」
 僕の部屋には面白みというものが何もない。何かを飾る趣味もないし、部屋の模様替えなどを考えたこともない。要するにくつろげるスペースがあればいいという感じだ。
「前橋君らしい部屋」と詩穂が言った。
「本当? どこらへんが」
「すごく合理的な感じ。要するに、くつろげれば自分の部屋でしょってところかな」
「ぐうの音も出ない。まさにそんな感じだ」
 揚げたての海老は美味しかった。場合が場合なら、ビールのつまみとしてゆっくりしたいものだった。だが、僕は運転のため酒は飲めない。
「食べたら帰るよ」と僕は言った。
「もっとゆっくりしていけばいいのに。ねえ、お父さん」
 母に言葉を投げかけられた父の額には汗が浮かんでいた。
「大丈夫?」
「……ああ。少し疲れたみたいだ」
 父がグラスを落とした。悪いことにその上に手をついてしまった。父の手のひらが真っ赤に染まる。
「お父さん!」
 母の悲鳴が部屋に響いた。
「大丈夫だ。たいしたことない」
 最初に動いたのは詩穂だった。「止血しますね」と言って、ハンカチを父の手首に巻いた。

 父を車に乗せて病院へ連れて行った。傷は縫う必要はあったが、それほど深いものではなかった。体調不良は、疲労によるものだろうという診断だった。
「お父さん、今日が楽しみすぎて張り切っちゃったのね」と母が言った。
 父の治療などで二時間ほど待つことになった。母が車で休むといったので、僕と詩穂の二人で待合室にいることにした。
「暇だね。何か雑誌持ってくる?」
「いいえ。ちょっとコートかけていい」
 と言って、詩穂は自分と僕の膝が隠れるようにコートをかけた。
 詩穂の右手が僕の左手を握った。
「前橋君の手」
 詩穂の指が、僕の指をなぞっていく。
「小指は意外とほっそりしているのね。薬指は、意外と長いのね」
「君の指はとても柔らかいよ」
「男の人だからかな。前橋君の指は少しごつごつしている」
 僕は手を握り返すことはせず、詩穂にされるがままにしていた。親指を掌でくるんだ後は、手の甲をそっと撫で始めた。
「温かいわ。それに、大きい」
 円を描くように何度も撫でた後で、詩穂の指は掌の側に移った。皺を一つ一つなぞるように指で触っていく。
「凄い。あなたを近くに感じる。くすぐったくない?」
「いや、なんというか、気持ちいい」
 詩穂は眼を見開いたが、「私も」と言った。息が荒くなっていた。
 僕も詩穂の指をなでたり手のひらをなぞったりした。僕らの指と指は、コートの下で絡み合った。
 しばらく続けた後、僕は詩穂の手を握り締めた。詩穂も握り返してきた。目を閉じて、襲ってきた感覚の余韻に浸った。
 治療を終えた父と母を家に送り届けると、外出の終了時間になった。
「結局病院を往復しただけだった。とんだ一日だったね」
「仕方ないわ。それより、また、しようね」
 と、詩穂は指をくねらせる仕草をした。 
 指の感触がいつまでも掌に残っていた。


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