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「珠名の森のねむり姫」 十四歳その2(1)

 教室内にピアノの音色が響く。音楽教師の演奏が終わると、生徒たちは自然と拍手をした。
「この曲知ってる」
 とみんな口々にしゃべりだす。
「パッヘルベルのカノン、です。日本で一番有名なクラシックかもね。カノンというのは繰り返し、という意味です」
 そう言って、彼女は有名なパートを引き直した。
 人生は繰り返し、という言葉がある。僕は同じことの繰り返しはつまらなく、呪いのような言葉だと思った。だけど、こんな美しいメロディなら、繰り返しというのも悪いものではないと思えた。
 廊下を歩いていると、前方から詩穂が歩いてくるのが見えた。途端に全身がこわばるのを感じた。
 詩穂が僕に気づいた。口元に軽く笑みを作った。僕も笑顔を作ろうとするが、自分でも顔がこわばっているのがわかる。
 そのまま僕らはすれ違った。数歩歩いてから振り返る。
 詩穂はいなかった。
 大きくため息をついた。好きな人ができるというのは心臓に悪い。寿命が縮む。
 図書館で話す時とは別人のように見えた。詩穂のように極端でなくても、若林君と部室以外で会っても、話すことはない。なんとなく、部室や図書館といった定まった場でなければ会話の糸口がつかめないのだ。
 僕は若林君に「孤島の鬼」を手渡した。
「ありがとう。すごく面白かったよ」
「本当?」
「うん。ハラハラドキドキしたし、双子のなっちゃんたちの描写は、すごく不思議だった」
「気に入ってくれてよかった。僕にとってとても大事な小説なんだ」
「若林君、本好きだよね。それなら文芸部に入ったほうがいいんじゃない?」
「え」
 若林君はすごくショックを受けたみたいだった。
「いや、若林君がこの部にいてくれるのはうれしいんだよ」と僕は慌てて付け加えた。
「兼部だから、ここのスタンスくらいがちょうどいいんだよ」と彼は言った。
「なるほど」
 すると、部長の張りのない声が響いた。
「えー、文化祭、うちら何します?」
 おしゃべりをしていた部員たちは静かになったが、しばらく誰も発言しなかった。
 文化祭、と銘打たれているが、午後の時間を使ったちょっとした催し物である。元は、吹奏楽の発表を体育館でしていたらしいのだが、何代か前の生徒会が、それなら文化部全体の発表にしたらどうかと提案し、文化祭という形になった。そうはいっても、外部から人を呼ぶわけでもなく、ただ教室をいくつか使って、美術部や文芸部などが展示を行い、生徒が適当に見回る時間ができただけである。
「なんでもいいんじゃないすか、どうせ誰も見に来ないんだし」と一年生が言った。
「それはそうなんだけどさ、何か案出してよ」と部長が苦笑しながら言った。
「去年は何をしたんですか?」と若林君が言うと、「そこの本棚の本を並べただけ」と副部長が言った。
「それでいいか」と部長が独り言のように言う。
 締まりのない結論だと思ったけれど、これといったアイディアも熱意もないので、僕は黙っておいた。
「どんな本があるか見たことなかった」と言って一年生の二人組が本棚から本を抜き出した。
「あ!」
 という声が部室内に響く。
 彼が手に持っていたのは、いわゆるエロ本だった。
「なんでこんな本がここに」
 本を持った一年生は、軽いパニックを起こし、「わ」と言って本を放り投げた。その拍子に本がめくれた。裸の女性がポーズをとっているページが開いた。
 部員たちは、視線をさまよわせた。裸に強烈な興味はあるが、それを人前で表に出すのは恥ずかしく、しかし、代わりにどのようにふるまえば正解なのかわからないのだ。
「誰かがこっそり入れたんだろうね」
 そう言って若林君が本を手に取った。視線はページに注がれているが、そこには情欲の炎やそれに類する感情の揺らぎは見て取れなかった。
「さて、これをどうしよう」
「ご、ごみ箱に捨てますか?」
「回収の時に問題になるんじゃないかな」
「どこかで燃やすとか」
「見られたら大変なことになりますよ」
「……そうか」
 若林君は、テーブルに本を置くと、おもむろに表紙を引き裂いた。
「ばらばらにしますか」と彼は静かに言った。
 彼はまとめて数ページを引き裂くと、本を僕に手渡した。
「君もやってみる? すっきりするよ」
 手元のページでは、半裸の女性がほほ笑んでいた。
 ページに手をかけ、引き裂いた。びりりりという音が耳に響く。なぜだか大きな罪悪感があった。
「お、俺もやっていいですか」と一年生が言った。
 彼は、「うおおお」と大声をあげてページを引き裂いた。破った後、彼は息切れしたように荒い息をしていた。
 僕らは順番に本を破いていった。若林君はその光景を愉悦の表情を浮かべて眺めていた。

 また詩穂と図書委員の日が来た。詩穂は本に目を落としている。図書委員としては健全な姿だ。受付の人間があまりおしゃべりしていると怒られる可能性がある。「図書館ではおしずかに」だ。
 僕も本を出して読むふりをした。背表紙をさりげなく詩穂に見せる姿勢にする。
 これは僕の作戦だった。本のこととなると、詩穂も話し掛けずにはいられないだろう。
 十分が経過した。詩穂は話し掛けてこない。だけど、僕は詩穂の視線がチラチラと僕の本に注がれていることに気づいていた。
 あまり詩穂のことを気にしすぎているとばれてしまうと思い、少し本を読んでみる。すると、あっと驚く展開が待っており、「え」と小さく声をもらしてしまった。
 いい匂いがした。視線を詩穂の方に向けると、すぐ目の前に詩穂の顔があった。
 大声をあげそうになるのを必死にこらえる。
「ねえ、そんなに面白いの?」
 と詩穂は尋ねた。
「うん」と小声で答えた。
「どんな話? 私、その本怖いイメージがあって読んだことないの」
「これは黒猫って話で」
 受付の前に人影が立った。視線を向けると、図書の先生だった。
「静かにね」
 と注意される。
「すいません、私が話しかけてしまって」
 と、詩穂は深々と頭を下げた。
 先生が行ってしまった後も、詩穂は話し掛けてこなかった。
 しかし、僕は話がしたかった。あの幸福な瞬間が僕の中で木霊していた。
 僕の方から話し掛けようかとも考えたが、あんなにしっかり謝った詩穂に、また話し掛けて叱られたら悪いような気がした。
 詩穂が本を置いて、鞄からノートを取りだした。さらさらと文字を書いている。宿題でも始めたのだろうか。図書委員は声を出さなければ基本的に自由なので、宿題をする生徒もいる。
 すっと、詩穂がノートを滑らせてきた。無言でノートを指さしている。
「ごめんなさい。さっきの話の続きがどうしても知りたくて。できれば、ここに書いてくれない?」
 と、少し丸みを帯びた文字で書いてあった。
 僕は詩穂に向けて親指を立てた。詩穂も親指を立て返した。
 中学二年にして初めて手にした女子のノートに、僕は内心感動していた。めくったりしてじっくり眺めていたかったけれど、プライバシーを侵害するみたいなのでやめておいた。
 シャープペンシルで、落ちの手前までの部分をノートに書いて、詩穂に返した。
 詩穂は熱心にノートを眺めていた。それからペンで何かを書いて返した。
「面白いね。とても分かりやすかった。ありがとう」
 僕は、「早川さんは何を読んでいるの?」と書いて返した。ノートを見た詩穂は、すぐに書き始めた。
 会話が続いていることが嬉しかった。詩穂がノートに書いている間に、生徒が本の返却に来た。詩穂に目配せし、僕が本の返却処理を行った。
 詩穂が読んでいた本は、ミヒャエル・エンデの「モモ」だった。
「時間泥棒に時間が奪われてしまうお話です。今、理容師さんが騙されて時間を盗られそうになっているところ」
 と書いていた。
「僕の行く理容師さんがすぐにバリカン使いたがるのは時間を盗られたせいかもしれない」
 と書いて渡すと、詩穂はクスっと笑って、「そうかもね」と返した。
 数名の貸し出し処理を経て、話題は文化祭に移った。
「吹奏楽部は回る時間あるの?」
「発表会があるから、準備と後片付けに追われると思う。その合間で学校を回る感じかな」
 僕がノートを読んでいると、詩穂が「あっ」という感じで僕を手招きした。
「そういえば、前橋君は何部?」
 と詩穂が耳元でささやいた。彼女の吐息が耳に触れて、くらくらしそうになる。
 すると、返事を待つために詩穂が髪をかき上げた。形の良い耳があらわになる。
「か、科学部」
 というと、詩穂はうなずいたが、微妙な顔をした。おそらく、そんな部活があることを知らないのだろう。
 片耳を出したまま首をかしげている詩穂はとても可愛かった。鼓動を落ち着けるようにしてノートにペンを走らせる。
「部活といっても、週に一度集まって雑談するだけなんだ」
 と、そこまで書いたところで「若林君も兼部しているよ」と付け加える。
 ノートを読んだ詩穂は大きくうなずいた。
「若林君は人気者だよ」
 と詩穂は書いた。少しだけ胸がざわついた。「早川さんはどう思っているの?」と聞きたかった。でも、とても尋ねることはできなかった。冷静なリアクションができる自信はなかった。だから、「科学部でもみんなと仲いいよ」と書いた。
「科学部は文化祭何をするの?」
「部室にある本を並べるだけ。誰も来ない部屋で延々と部屋番をするんだ。たぶん、人生で最も無意味な時間の一つだろうね」
 それを読んだ詩穂はまた吹き出して、「笑わせないで」と返した。
 詩穂を笑わせたことがなんだかとても誇らしかった。


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