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「珠名の森のねむり姫」 第五章(1)

「逢ふことの 絶えてしなくは 中々に 人をも身をも 恨みざらまし」

 四十四番。中納言朝忠の歌だ。あなたとの良い時間が一度もなければ、こうして恨み苦しむこともなかったのに、という意味だ。この歌の意味は、人生の中で知りたくなかった。
 病院に行くと、詩穂が一人でベンチに座っていた。
 詩穂は本を読んでいた。
 僕が近づくと、顔を上げた。
 気にし過ぎなのかもしれないけれど、一瞬何かの間があったような気がした。
「座ってもいい?」
「ええ、どうぞ」
 なぜか、確認してしまった。座ってからも、しばらく沈黙が流れた。自然に二人で話していたころを忘れたみたいだった。
「お仕事はどう?」
 と詩穂が言った。僕は、何か面白い話はないかと考えたが、何も思いつかなかった。簡単に最近の仕事の状況を話したけれど、辛気臭い内容になってしまったと思った。
「大変ねえ」
 詩穂のリアクションはいつもと同じようだった。それ自体はごく普通のことのはずなのに、僕には、どうしても、久遠と話す時に笑う詩穂の姿がちらついてしまう。
「歩こうか」
 と詩穂が言った。僕と詩穂は並んで歩いた。病院に囲まれた庭の中だったが、歩いていると気分がほぐれてきた。
 そのまま、僕らは病院の中に入った。詩穂が、自分の病室からノートを持ってきた。
「はい。ちょっと遅くなりました」
 僕らは手を振って別れた。
 交換日記には、いつもの調子で病院のことや読んだ本の感想が書いてあった。
 いつも通りだ。それだけなのに、泣きたくなった。人を好きでいるということは、苦しかった。

 工場で、トラブルが起きた。野田という社員を伊藤が怒鳴ったのだ。喧嘩になりそうだったので、僕が仲裁して二人を引き離した。
「あいつマジで仕事をなめてますよ」
 と、伊藤は怒り心頭だった。
 どのみち、野田とは話さなければならないと思っていた。
 テーブルをはさんで、僕と野田は向かい合った。
 野田は大卒の二十三歳だ。
「どうして喧嘩になったんですか?」
「あの人がごちゃごちゃ言ってきたんですよ。仕事が遅いとか雑とか」
「なるほど」
 実のところ、野田の勤務態度には、伊藤以外からも報告が上がっていた。野田は、決められた手順を守らず、仕事の仕上げが甘かった。やる気というものが見られず、ひどい時には立ったまま目を閉じて眠っている、と報告する者もいた。
「伊藤さんの言い方や態度は、僕も確認して、不適切であれば直すように僕からも言っておきます。ただ、この機会だから話しておきたいんだけど、工数が先月より伸びているから、その点は改善をしなくてはならない」
 工場では、一つの製品を作るのに時間が決まっている。工数五分であれば、一時間で十二個作れる計画となる。これが、工数が六分に伸びてしまうと、一時間で十個しか作れないことになる。たかだか一分の違いでも、一ヶ月、一年単位で考えると膨大な違いとなってくる。新人が入ってきたり、新製品が導入されたりすると、最初は工数がかさむのだが、日を追うにつれて減ってくるのが自然な流れだ。だが、野田が入社してからは、野田が組み立てを担当する製品は、工数が伸び続けていた。
「いや、普通にやってますよ。伸びたのはたまたまアクシデントが重なったんじゃないですか」
「そうかもしれない。でも、そうでないかもしれない。だから、伊藤さんに見てもらうことにしていたんだ」
 野田は視線をそらして、小声で「ウザッ」と言った。それは聞き流すことにする。
「野田さんから言っておきたいことはある?」
「別にないですよ」
「それなら、引き続き伊藤さんか誰かに見てもらうことにするよ」
「いや、どうせ、俺は製造から離れるんで、もういいでしょ」
 野田が作り笑いをした。
 大卒者は、製造を一年程度経験すると、他部署に移動になる。どちらかというと、本配属の前に、しばらくの期間製造で研修させる、という方が正しい。大部分の人は真面目に勤務をするのだが、中にはあからさまにやる気がない人もいる。
「確かに野田さんは移動になるけれど、ここで製品を製造して、それで会社の売り上げを作っているのは確かだから、見ておいてほしい。将来、きっと役に立つと思う」
 野田は黙って唇をかんだ。
 きっと、野田自身ある程度分かってはいるのだ。伊藤の今までの報告と合わせると、うまくいかずにお荷物扱いされていると思っていて、それが野田には我慢ならないのではないかと、考えられた。プライドが許さないのだ。
 人の心は難しい。優しさがあだになることがあるし、かといって厳しくするのは、往々にしてただ苦痛を強いるだけになる。
 野田との面談の後、伊藤が話しかけてきた。引き続きよろしくと伝えると、
「ビシッと言ってやったほうがいいすよ。優しくしてもなめてくるだけですから」
 と言った。残念ながらそういう側面があるのは事実だった。主任になってから、そう痛感することは多かった。 


#創作大賞2024 #恋愛小説部門

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