見出し画像

「珠名の森のねむり姫」 第六章(2)

 週明けからも仕事が忙しかった。サウナで休んでいてよかったと思った。
 中年以上の人は、若いうちはいくら残業しても徹夜しても無限に体力が湧いてくるからいいと言う人がいるが、僕にはその感覚はなかった。睡眠時間が短くなれば眠たいし、残業が続けば週末は布団で伸びている。それは働き始めた十八歳の頃も同じで、週末には疲れすぎてどこにも出かける気がしなかった。
 ひょっとしたら、年を取って中年以降になれば、今の自分が感じている疲労感とは段違いの疲弊を感じるようになるのかもしれない。そこには、幾分かは生物の悲しみを感じずにはいられない。
 すっかり遅くなり、雨の夜の中、車を走らせた。
 ビニール傘を差して歩く人影に見覚えがあった。顔を確認しながら追い越し、車を路肩に止めて待った。
「山野さん」
 通り過ぎようとした麻友に声をかけた。
「どうしたの?」
「親が迎えに来れなくなって」
「送っていくよ」
 麻友は傘を畳んで車に乗り込んだ。
「すいません」
 風があったせいか、麻友は濡れていて、シャツが体に張り付いていた。
 タオルを渡した。
「ありがとうございます」
 顔と体を拭きながら、麻友が礼を言った。「安物の傘じゃ全然守れなくて」
 小ぶりな傘だった。
「ちょっと安すぎだったね」
「はい」
 考えてみれば、背中から抱きつかれて以降、きちんと話すのは初めてかもしれない。
 意識しない様に、と考えながら車をスタートさせる。
 すると、麻友のお腹が鳴った。
「すいません」
「いやいや、お腹すいたよね。ご飯は家にあるの?」
「それが、ないんでコンビニで買って帰ろうかと」
「それなら、どこかで食べて帰ろう」
 道沿いにあった店に適当に入った。レストランだと思ったら、居酒屋寄りの店だった。今更出るのもなんなので、ソフトドリンクと料理を数品注文する。
「山野さんはお酒飲んでもいいのに」
「いや、お酒苦手で」
「ああ。そうなんだ」
「前橋さんは、飲み会とか行かないんですか?」
「最近は全然いかないなあ」
入社して二、三年は、同期や先輩と居酒屋に行くこともあった。ただ、僕は未成年だったのでソフトドリンクを頼み続け、ノリもいい方じゃなかったので、誘われることもなくなった。
主任になってから、ほとんどそういう場はなくなった。たぶん、本来は僕がそういった場をセッティングしなければならないポジションなのだろう。
「まあ、会社の飲み会とかない方がいいですけど」
と麻友は言った。僕も、気質的にはそちらに賛成だ。友達と飲むのならともかく、会社での飲み会は、会社の上下関係や人間関係がそのままついてきて、場所を変えた残業としか思えないことも多い。
ただ、飲みニケーションという言葉があるように、そういった場を設けることで、仕事が円滑に進む部分もある、と主任になって感じるようになってきた。
 食事を終えて、麻友の家に送っていった。麻友はお礼を述べた後、「こ、今度、カラオケ行きません?」と言った。
 突然のことに驚き、「カラオケ?」とオウム返ししてしまう。
「そうです。私、一人でカラオケ行ったりしたりするんですけど、二人だったら楽しいかなって」
 麻友は誘いながらも、声量がどんどん小さくなっていっていた。
「うん。行こう」
「本当ですね。嬉しい」
 麻友は車を飛び出した。傘を忘れていた。

 カラオケの約束をしたのはいいが、僕は歌が下手だった。そもそも音楽をあまり聴かない。当然歌う機会自体がない。
 麻友が、さっそく週末にカラオケの提案をしてきたので、大慌てで、自分にも歌える曲がないか探した。
 行きと帰りの車で曲を流し、小声で歌う。音程が合っているのかもわからない。
 信号で止まり、隣の車線の人がこちらを見ていたりすると、声が外に漏れていたんじゃないかと恥ずかしくなる。
 二、三日あがいたあげくあきらめた。歌なんて知っている曲を歌えばいい。
 金曜日は僕だけ事務仕事で遅くなった。ネットカフェで時間をつぶしていた麻友を拾って、カラオケに向かった。
 麻友が指定した部屋は、二人にちょうどよいサイズだった。
「一人の時もこの場所が多いんです」
 と麻友が言った。
 さっそく麻友が曲を入れて歌い始めた。
 ハッとするほど綺麗な声だった。普段の話し声と声質は変わらないのだが、のびやかで、羽ばたいているような歌声だった。
 麻友が内に隠している本当を聴いたような気がした。
「上手だね」
 曲が終わると自然と拍手が出た。
 麻友は、何かを耐えるように唇を結んでいた。気を悪くしたのだろうか。
「次、前橋さん、どうぞ」
 いつもの麻友の声に戻っていた。
 歌わないのも失礼なので、キーが低く、歌えそうな曲をチョイスして入力する。
 伴奏が始まった。普段カラオケに行かないので、どこを見ていいのか分からない。ひたすら画面を見て歌う。
 曲の合間に麻友を見ると、目が合った。お互いぎこちなく笑い合う。
 時々音を外しながら、歌い終わった。中距離走を完走したような気分だった。
 拍手をしながら、麻友が「私もこの曲好きです」と言った。
 次に麻友が入れた曲は、僕も何度か聞いたことがあった。元のアーティストの声を知っていると、麻友が、歌を自分のものにしていることがより理解できた。
 ただ音やリズムが合っているだけではない。感情の乗せ方が上手いのだ。こういうのを歌の解釈、というのだろうか。聴き惚れているうちに歌が終わった。
「すごいね」
 また拍手しながら言うと、麻友はぺこりと頭を下げた。褒められて不愉快になっているわけではないようでほっとする。
「では、前橋さん、どうぞ」
 と麻友に促される。
「ええっと、どうしようかな」と迷っていると、
「ひょっとして、あんまり楽しくないですか?」
 と麻友が不安げな顔をした。
「そういうわけじゃないんだ。ただ、僕は歌が下手だし、歌う習慣もないから、よければ山野さんが曲を入れてよ」
「え、でも、私ばっかり歌っていたら、前橋さん、退屈じゃないですか」
「全然。山野さん、本当に上手いよ。聴いているだけですごく楽しい」
「……それなら、入れます」
 続けて麻友が三曲歌った。そこでいったん休憩にして、フードを食べながら話すことにした。
「前橋さん、病院の人とはどうなりました?」
「ふられたよ」
 淡々と、感情をこめずに言った。
 麻友がドリンクバーにジュースを取りに行き、戻ってくると、僕の隣に座った。
「前橋さん、私と初めて話した時のこと、覚えています?」
「初めて?」
 そう言われると、いつなのかはっきり覚えていなかった。すれ違うたびに「お疲れ様です」と挨拶するうちになんとなく顔を覚え、業務の伝達などの時に少し話すようになった、という記憶しかなかった。あまりにも日常過ぎて、記憶を過去にさかのぼっても、同じ日々が伸びていくだけで、始まり、というものが分からなかった。
「私が勤務始めて一週間くらいの時です。私、最初すっごい仕事遅くて、けっこう色々言われてたんです。それが辛くて、もう辞めたいって思ってました。そのころ、前橋さんが見回りに来たんです。私の作った製品手に取って、『上手ですね』って言ってくれたんです。『綺麗だ』って」
 麻友の目から涙がこぼれた。そのまま体を寄せてきた。
「私は、前橋さんのこと、好きです」
 僕が何かを言おうとすると、「分かっています」と麻友は言った。
「今すぐ私を好きになって、なんて言いません。もっと私を知ってほしい。もっとあなたを知りたいんです」
 麻友の唇が近づいてきた。麻友は、すべてをさらして、僕に告白してくれていた。
 僕は、麻友の体を受け止めた。彼女の心臓の鼓動が伝わってきた。
「前橋さん」
 麻友の美しい声が、耳元で聞こえた。


#創作大賞2024 #恋愛小説部門

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?