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「珠名の森のねむり姫」 第十二章(2)

 葬儀を取り仕切らなければならないのに、僕や洋子さんたちは上手く動けなかった。僕らの時間は止まっているのに、世界は構わず歩みを進めていた。
 上手く手続きを行えない僕らを、僕の両親がサポートしてくれた。彼らは祖父母を見送っているので勝手が分かっていた。
 地元メディアから改めて取材の依頼が来た。僕らは、全員で、きっぱりと断った。
 柩の中に入れられた詩穂は、いつもの眠りの延長にいるみたいだった。手を差し伸べれば体を起こし、また歩いてくれるようだった。
葬儀の準備は粛々と進められた。
 詩穂の遺影は、結婚のドレス撮影の時に撮られたものだった。詩穂が依頼しておいたものらしかった。
葬儀には、地元に残っていた同級生も参列してくれた。僕と結婚していたことを葬儀の時に知った人もいて、一様に驚いていた。
彼ら彼女らは、僕に何かを述べた。僕はそれに答えた。答えたと思う。僕の意識とは違うところで、それは行われていた。
 詩穂の体の上には、水色のワンピースがかけられていた。僕と出かけた時のものだった。
 柩にいくつもの花が手向けられた。水色のワンピースの傍らに、詩穂の顔のそばに、美しい色が添えられていった。
「お姫様みたい」
 と親戚の子供が言った。本当に、おとぎ話の眠り姫のようだった。
 しかし、彼女のすべては焼かれ、灰になった。

 四十九日が終わると、良治さんが、
「君も事態が受け入れられないだろう。私たちだってそうだ。詩穂の部屋や遺品はそのままにしておく。少し時間を置こう」
 と言った。
 そして、僕にはありあまる時間ができた。
 僕は毎日家の周りを走った。走れば走るほど、フォームは崩れていった。正しいフォームを保つということに、一切興味が持てなくなっていた。足の痛みだけが、走ったことの記憶として残っていった。
 この三年間、僕は待ちながら過ごした。でも、これから僕は何を待てばいいのだろう。どんなに待っても、詩穂が目を覚ますことはないのだ。
 悲しみはふとした時に僕を刺した。喪失感というはっきりとした形をとることもあれば、知らず涙を流しているということもあった。悲しみが襲ってくると、僕はエレベーターの上昇圧さえ耐えられなかった。座り込んで立ち上がることができなかった。あの日、詩穂を焼いた炎は、僕の心の欠片も一緒に焼き尽くしていったのだ。
 秋になり、木村さんと、喫茶店で待ち合わせした。
 顔を見た瞬間に僕らは理解した。
 僕らは、喪失という同じ病に罹患していた。患者同士お互いを慰めあうことはできても、どちらかがどちらかを治療することはできなかった。
 久遠には伝えることができなかった。ネットで見る彼の生活は充実していた。暗い影はなく、いつも昼間のようだった。それは、彼のためというより、彼のフォロワーのための空間のように思われた。彼に悲しい知らせを届けたくなかった。
 いや、それは言い訳だった。彼の中だけでも、僕と詩穂の結婚生活が続いてほしかったのだ。それができるのは、今では久遠だけなのだ。
 僕の部屋には、たくさんの睡眠に関する本があった。詩穂の症状を理解するための助けとなればと思って集めたものだ。睡眠障害や疾患についての本が多かったが、快眠に関する本も何冊かあった。心地よい眠りの状態や入眠法を理解することが、逆に目覚めさせるアプローチにつながらないかと考えたのだ。
 パラパラとめくってみた。奇抜な方法以外では、夕方以降カフェインを取らない、適度な運動をする、夜は照明を暗くして生活する、などに集約されていた。
 僕は、なるべくたくさん眠ることにした。そのため、眠る予定の八時間前からカフェインを取るのを控えた。そうすると、仕事の後半はカフェイン抜きで過ごすことになり、はじめは眠くて仕方なかったが、睡眠時間が増えるにつれて気にならなくなった。
 寝具も一新した。マットレスも枕もオーダーメイドのものに変えた。自室のカーテンも遮光性の強いものに変えた。照明も光の色や明るさを細かく変更できるものに変えた。エアコンを変え、空気清浄機も変えると、部屋の環境はほぼ整った。
 僕の生活で一番大事な時間は、部屋に入りベッドに横たわり目を閉じる瞬間だった。生活のすべてはその一点に向けてデザインされていた。暴飲暴食は避け、適度に運動し、夜は脳が興奮するものは控えた。
 僕は、眠るために生きていた。しっかりと眠って確かな夢をみようとした。
 目を覚ますと、夢日記に覚えている限りの夢を書いた。はじめはすぐに忘れてしまったが、コツをつかむと、夢をかなり詳しく書けるようになった。目を覚ましても、すぐに目を閉じ、現実の刺激を遮断する。それが大事だった。何か情報が入ってくると、それだけでずいぶん夢の記憶がなくなってしまう。夢の出口になるべく留まるように努めることが大事だった。
 睡眠時間は、だいたい七時間半で固定され、夢は詳細に記述できるようになった。だが、夢の中に詩穂は一度も出てこなかった。明晰夢に関する本を読み、夢をコントロールしようと試みたが、僕には特性がないのが一度も成功しなかった。
 どんなに長く眠ろうとしても、いつかは目を覚ます。ずっと眠り続けることはできない。ごまかしてもごまかしても、同じ結論に至る。詩穂はもういない。詩穂にはもう会えない。
 眠りの病が発病するたびに、詩穂は世界に置いていかれた。死んでしまった詩穂は、永遠に同じ時間にとどまり続ける。それに構わず、世界はどんどん前に進み、詩穂を置いていく。永遠に距離は開き続ける。僕もまた、世界とともに、詩穂を置いていく。
 昔観た映画に「死は最後の医者」という言葉があった。愛する人を亡くした者にとっては、自分も死ぬ運命にあることは、ひとつの救いだった。
 冬が来た。しかし、僕は何も感じなかった。ただ、時々うずくまって動けなくなってしまうだけだった。
 年末に、思いもかけない人物から連絡が来た。 


#創作大賞2024 #恋愛小説部門

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