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「珠名の森のねむり姫」 第十一章(4)

 詩穂に簡単に体の調子を確かめてもらった後で、僕は医師に連絡した。それから、詩穂は両親に電話をし、十分程度話していた。
「予定を早めて帰ってくるって」
 と電話を切った詩穂が言った。
「私はどれくらい眠っていたの?」
「三年と少し」
「三年か……」
 詩穂はうつむいて「ほんと浦島太郎だね」とつぶやいた。
「体に本当に違和感はない?」
 詩穂は、確認するように指を閉じたり開いたりした。
「それがね、何もないの。たぶん、体はずっとここにいたのよ。私がいなかっただけ」
「そうか」
詩穂は深々とお辞儀した。
「ありがとうございます。三年間眠って目覚めてこうして動けるのは、あなたやみんなが看病してくれたおかげです。本当にありがとうございます」
 詩穂は座椅子に腰かけて、窓から外を見た。
「桜が咲いているの?」
「いかにも。ちょうど見ごろの時期だよ」
「観に行ったらダメかな?」
 僕は反射的に「それはやめた方がいいんじゃないかな。お医者さんの検診が明日あるから、それまで待った方が」と言った。
「そうよね。無理言ってごめんなさい」
 詩穂は、物思いに沈むようにうつむいた。
 天気を調べた。今晩から天気は下り坂で、明日からしばらく雨が続いていた。おそらく、雨があがるころには桜は大部分が散ってしまっているだろう。
 それに、詩穂の願いは、ただ綺麗な桜を観たいというものではない気がした。もっと切実な、世界に触れたいという感情なのだと思った。
「よし、ちょっと出かけてみよう」
「本当にいいの?」
「だけど、体調が良くなかったらすぐに帰る。いいね?」
「分かりました。ありがとう」
 詩穂は、ゆっくりと時間をかけて準備をしていった。顔を洗う時の水の冷たさに驚き、化粧をして微妙に変化する顔を楽しんだ。服を選ぶ時には、「体が一つしかないのが残念」と唇をすぼませた。一つ一つを慈しむように丁寧に行っていった。
 最後に、長い時間自分の部屋に入り、詩穂が出てきた。
 微笑みながら指輪のはまった指を見せた。
 光が詩穂を照らしている。太陽から届いた光が詩穂に反射し、僕の目の中で焦点を結んだ。
 車に詩穂を乗せ、スタートさせた。
「修学旅行の時の夢をみた気がするよ」
 と詩穂が言った。
「実は、何度もその話をしていたんだ。その効果かな」
「ふふ、お互い巻き込まれましたね」
「まったくです」
「でもね、中学の思い出だけじゃなくて、出会ってからのことも夢に出てきたの。両方、私にとって大事な記憶」

 珠名の森の桜は満開だった。静かにその美を散らせていた。一つであった花弁がはなればなれになり、各々が地面へと落ちていった。そのいくつかは、詩穂の髪、肩、唇に降り、しばし留まった。詩穂は立ち止まり、両掌でお椀のような形を作り、桜を待った。舞い込んできた花弁を包み込むように指を閉じた。
 胸がいっぱいで、伝えたいことが多すぎて、かえって何も話せなかった。
 ふと隣を見ると、詩穂が僕の顔をじっと見ていることに気づいた。
「僕の顔じゃなくて桜を見なよ」
「私にとっては前橋君の顔も珍しいんです」
 詩穂がつまずいた。受け止めると、そのまま体を預けてきた。
「ごめんなさい。ちょっと力が入らなくて」
「戻る?」
「もうちょっといたいけれど」
「それなら」
 僕は、しゃがんで詩穂を待った。
「おんぶしましょう」
「ええ?」
「大丈夫。誰も見てないさ」
「重いんじゃない?」
「鍛えてたんだ。真価を示す時さ」
「ふふっ」
 詩穂が、背中から手を回して僕に寄り掛かった。僕は、「つかまってて」と言って立ち上がった。
 詩穂の体温を感じた。吐息が耳朶をくすぐった。
 幾人かの人とすれ違った。そのうちに、人も絶えて、僕たちは桜の道を進んでいった。誰もいない世界に入っていくみたいだった。光が優しく目を焼いた。世界は光に満ちていた。
 風が吹いた。山肌を撫でるように降りてきた風が、桜の花弁を舞い上げて、大粒の雪のように降らせた。
 そのまま、詩穂と一緒に、桜に埋もれて、一つに溶け合いたかった。


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