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「珠名の森のねむり姫」 第三章(3)

 キスによって詩穂が目を覚ました「奇跡」は、僕や詩穂自身よりも、両親にとって大きな驚きだったようだった。僕は、両親に手を握られて、「ありがとう」と何度も礼を言われた。
 ただ、僕と詩穂は、両親よりは冷静だった。
 詩穂が目覚めたのは、ただの偶然である可能性は十分に考えられた。一回だけの奇跡、という可能性もある。
 いや、両親もそんなことは理解しているはずなのだ。それでも、何らかの行為の後で、娘が目覚めた、そのことが嬉しくてたまらないのだ。
 詩穂は、キスの間のことは覚えていないと言った。確かに、詩穂が目を覚ましたのは、唇を離した後少しの時間が経ってからだった。
 つまり、あの記憶は僕だけのものということだ。
 記憶がないからか、詩穂はあまり気にしていないようだった。高校に入ってすぐに発病したことを考えると、あれは詩穂にとってのファーストキスというものになるかもしれないから厳密に考えたくない、という可能性もある。
 あれは「医療行為」だった。そうなのだ。
 関係性の進展、という意味では、より難しくなったような気がする。
 告白をして、付き合うことになったら、眠っているときにキスをするのは、もっと自然なことになるだろう。
 だが、問題はふられた時だ。誰でもいい、あるいは唇への刺激だけでいいのなら、問題はないのかもしれないが、僕でなければならなかった場合、淡々とその役をこなすことができるだろうか。いや、そもそも詩穂が嫌がるんじゃないだろうか。
 詩穂が目覚めて嬉しかったのに、ただそれだけだったはずなのに、また僕はごちゃごちゃ考えてしまっていた。

 工場に行けば、山ほど仕事が待っていた。こういう時、仕事にはよい面もあった。夢中で仕事をさばいていれば、考え事から身を離すことができた。
 詩穂が仕事の話をよく聞いてくれるのも、嬉しかった。ただ、体調が良くないときに無理に聞かせないように気をつけた。他人の仕事の話は、時折聞く分には興味深いかもしれないが、ずっと聞かされるとたまったものじゃないだろう。
 僕も、もっと詩穂を支えたいと思った。一般的な恋人同士とは違うものなのかもしれないが、今の友達ではない、特別な存在になりたかった。
 それを、ちゃんと伝えようと思った。
 夜勤が明けて、病院にむかった。詩穂の面会を伝えると、まだ眠っているということだった。
 三十分だけ待つことにした。すると、すぐに詩穂がやってきた。ただ、足元がおぼつかない様子だった。
「大丈夫?」
「ええ。でも、ちょっとまだふわふわしている」
「もう少し横になっていたら?」
「それより、庭で朝日を浴びたいな」
 いつもよりゆっくりな詩穂の歩く速度に合わせて、中庭に向かった。綺麗な朝焼けと澄んだ空気が気持ちよかった。
 幸いベンチも空いていた。腰を下ろすと、詩穂は大きく伸びをした。目が覚めてきたみたいだった。
 どこから切り出せばいいのか分からなかった。雑談からと思っても、雑談を考えるキャパがなかった。
「今日ね、何か不思議な夢を見た気がするの」
 と詩穂が言った。
「どんな夢?」
「それがね、はっきりと思い出せないの。そうかといって、まるっきり消えてしまったというわけじゃなくて、小骨みたいにずっと引っかかっているの。何かのきっかけで思い出せそうなんだけど」
「そうなんだ」
「思い出したら言うね。それで、前橋君は何か話したそうだよね?」
「分かる?」
「ふっふーん、なんとなく分かります」
 詩穂から話を振ってくれた。このまま話すべきだと思った。
「どこから話したらいいのか分からないけれど」
 そこで言葉を切って、詩穂を見た。
 詩穂は僕を見ていなかった。驚愕ともいえる表情で、何かを目で追っていた。
 視線の先に目をやった。
 若い男性が中庭を歩いていた。物憂げな表情で、少しうつむいていた。それが、彼の美しい横顔にはよく似合っていた。
 彼も詩穂に気づいた。目を少し見開き、それから、笑顔で近づいてきた。
「夢で逢った人だ」
 と詩穂がつぶやいた。
 その日、詩穂は運命の人と出会った。僕は、隣でそれを見ていた。


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