「珠名の森のねむり姫」 第十二章(4)(終)
年が明けた。僕は、洋子さんたちのところへ挨拶に向かった。
ぽつりぽつりと雪が降っていた。弱々しい雪で、地面に落ちる前に色を失い、なんの痕跡も残さず果てていた。
僕を迎えた良治さんと洋子さんは、思っていたより元気そうだった。
家の中に入ると、空間が広いことに気づいた。
詩穂のベッドがなくなっていた。
「年末に処分したんだ」
と良治さんが言った。
僕は、詩穂のベッドがあった辺りに立ってみた。ベッドの脚があった場所が、少しへこんでいた。これもまた、彼女が存在した証の一つだった。それを見た瞬間、胸に鈍い痛みが走った。どうにも悲しくなってしまい、しばらく動くことができなかった。でも、同時に理解していた。痛みは確実に以前より柔らかくなっていた。
良治さんは、今年出かける旅行の計画の話をした。「花火をたくさん見ようと思うの」と洋子さんは言った。二人は、前を向こうとしていた。
話がひと段落すると、洋子さんが一冊のノートを持ってきた。
僕らが交わした交換日記だった。
「あの子、メモ残していたの。自分が死んだら、これは捨てずにあなたに渡してくださいって」
ノートは、結婚することになった時に詩穂が持つことにしたのだった。毎日顔を合わせるようになってからは、すっかり存在を忘れていた。
僕は、ノートを受け取ると、家を辞した。
ノートを助手席に置いて、車を走らせた。家に帰ろうとしていたつもりが、全然違う道を走っていた。数瞬考え、僕は、自分が無意識に向かおうとしていた場所を理解した。
駐車場に車を停めると、病院の中庭に向かった。
久しぶりに訪れたその庭は、相変わらず光を集めたような明るい場所だった。患者は誰もおらず、裸の木々や植物だけが太陽を身に受けていた。
僕と詩穂が再会したベンチに腰かけた。
ノートを開く。すぐに自分の文字が目に入り、なんだか気恥ずかしい。
今読み返してみると、僕の好意はだだ漏れだった。詩穂はどのように受け止めていたのだろう。いつか、そんなことも話したかった。
詩穂は、楽しかったこと、嬉しかったことを多く書いていた。
でも、合間合間に、苦しみがにじんでいた。
あの時の僕は、十分にそれに気づけていたとは言えなかった。
交換日記は、唐突に終わっていた。これを持って、月明かりの中求婚したのだ。思えば、プロポーズもこの場所だった。
空白のページの次を開いてみた。
そこには、続きがあった。
詩穂が、「前橋君について書くコーナー」と題して、書いていた。好きな食べ物、好きな映画、好きな匂い。僕が答えたことをメモしていたらしい。
僕が好きな色が「濃い青」と書いてあった。
そんな返事をしたかもしれない。
青い下着を購入したことが書いてあった。
詩穂の感想は「なかなか青い!」だった。
好きな色を身に着けたら気に入ってもらえるかと思ったけれど、これは逆に引いてしまうかもしれないと感想が書かれていた。
「そんなわけないよ」
僕はつぶやいた。身に着けた姿を、たくさん褒めてあげたかった。
ノートをめくっていった。最後のページにまた詩穂の文字が現れた。よく見知った丸っこい文字だった。その文字を見た時に、すべてがよみがえった。
はじめて会った時に心奪われた横顔。僕の冗談に笑ってくれた笑顔。本を手渡す時に触れた指。うなだれた時に流れ落ちる髪。そして、抱き合った時の、唇の、体の柔らかさ。そばで微笑んでくれたこと。ただ、隣にいてくれたこと。
風が吹いた。
風の中に、詩穂の声がきこえた気がした。
私は、これを、桜を観に行く前に書いています。
たぶん、これが私の最後のお出かけになると思います。
あなたにお願いがあります。
生きてください。
あなたにはこれからもいっぱい出会いがあると思います。出会いを大事にしてね。
私のことは、時々思い出してもらえたら、十分です。
本当はもっとあなたと暮らしたかった。
だけど、最後に伝えたいのは後悔じゃない。
あなたに愛されて、幸せでした。
あなたを愛して、幸せでした。
とーっても、楽しかったです。
今まで、本当に、本当に、ありがとうございました。
じゃ、私は一足先に眠りにつきます。
それで、何十年も経って、もし、あなたにその気があったら、
会いに来て。
私はずっと待っています。
ゆっくりでいいです。何しろ、私は、眠りながら待つの得意だから。
(終)
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