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「珠名の森のねむり姫」 第九章(3)

 夜に病院に向かった。
 到着したのは、面会終了時間の一時間前だった。
 詩穂はすぐにやってきた。
「中庭を歩いてみない?」
 と詩穂が言った。
 夜の中庭は、不思議な生命力にあふれていた。日の光に抑えられていたもの、隠されていたものが、のびやかに息をしているみたいだった。
 僕の決意を伝えるには、ささやき声さえ通るこの場所が最適だと思った。
 中庭で、詩穂は今日思い出したことを話した。
 それは、中学時代の記憶だった。
 廊下ですれ違ったときに、手を振ったこと。
 自転車で走っていく僕を見たこと。
 詩穂と話していると、僕の記憶もよみがえった。
 中庭をぐるぐる回りながら、僕らは中学時代に戻っていった。
 それは、決して帰れぬ場所に、少しの間滞在するようなものだった。
 面会終了の時間が迫ってきた。そろそろ切り出さなければならなかった。
「実は、話そうと思っていたことがあるんだ」
「私も、話さなきゃってことがあって」
 詩穂の唇がかすかに震えていた。お互い、なんの話題なのか予期しているのかもしれない。
「僕から話すね」
「どうぞ」
 と、そこで、僕はノートを忘れたことに気づいた。
「ごめん、持ってくるものがあるんだ。すぐに戻ってくるから取りに行っていい?」
「うん」
 車に走り、ノートを手に取る。一瞬、やめようかと考える。あいまいに濁したままでいる方がいいんじゃないか、と。
 いや、もう今までの状態は終わったのだ。中学時代が終わったように。
 駆けて戻る。
 月明かりに照らされて中庭に立つ詩穂は、美しかった。
 詩穂の姿を目に焼きつける。
 僕の手元のノートを見た詩穂は驚いたようだった。
「交換日記、終わらせようと思うんだ」
 と僕は言った。
 詩穂は何か話そうとしたみたいだった。だけど、言葉にならず、黙ってうなずいた。
「よければ、僕が持っていてもかまわないかな?」
 詩穂は、もう一度、うなずいた。
「僕は、もうここには来ません」
 静かに告げた。
 詩穂は泣き出しそうなのをこらえて、「私の、せいですよね」と言った。
「君のせいじゃない。僕が、それが一番いいと思ったんだ」
 僕は、空を見上げた。
「月が、綺麗ですね」
 と言った。
 詩穂も空を見上げた。
「ありがとう。さようなら」
 僕は歩き出した。これ以上いると、僕の方が泣いてしまいそうだった。
 背中をつかまれた。
「まだ、私は話していません。聞いてくれませんか?」
 と、詩穂の声がした。
「うん」
「顔を見ると、話せなさそうだから、このまま話します」
 詩穂は、一度深呼吸すると、話し出した。
「私が、付き合えないと言ったのは、私自身が生きようと思っていなかったからです。きっと何もできない。迷惑ばかりかけてしまうから」
 背中をつかむ詩穂の手に力が入った。
「今回眠ってしまった時、とてもうす暗い場所にいました。もう戻らなければ、誰にも迷惑をかけない。それでいい、それが一番いいんだと思いました」
 詩穂は言葉を切った。呼吸を整える音がして、また詩穂の声が聞こえた。
「でも、あなたの顔が浮かびました」
「……」
「生きたい、あなたに会いたい、と思いました」
 振り返った。詩穂は泣いていた。
「ごめんなさい」
 と涙をぬぐい、
「私は、生きたいです。あなたと一緒に、生きていきたいです」
 と言った。
 僕には訳が分からなかった。
「でも、君を眠りから救い出したのは、久遠君だよ」
 詩穂は少しだけ笑った。
「ええ。私がいなければ彼は目覚めなかったかもしれないし、彼がいなければ、私は目覚めなかったかもしれない。でも、それだけなんです。二人で話して、よく分かりました」
「……」
「身勝手なことを言ってすみません」
「本当に、僕と一緒で、いいんですか?」
「ええ。あなたじゃなきゃ、嫌です」
 僕はひざまずいて、言った。
「僕と、結婚してください」
 詩穂は、僕の手を取った。
 月明かりが、僕らを照らしていた。



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