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技術とは何か?

老人保健施設で勤務し始めてまだ新人と呼ばれる頃に、脊損の利用者に出逢ったことが自分の原点のような気がする。下半身がまったく動かないのだけれど、日中はトイレで排泄がしたいという希望があったので、2人対応でトイレの介助をしていました。『他の利用者さんはスタッフが1人で対応してるのに、私は2人のスタッフを必要としてる。人よりも迷惑を掛けてすまないね。』と、いつも哀しそうに話される表情が切なかったです。トイレに行くという日常の行為ですらその人は罪悪感を覚えてしまう。何とかしてその人の苦々しい想いを取り除きたいというのが、技術的な創意工夫の始まりでした。

教えてくれる先輩は居ませんでしたから、利用者との対話の中で技術を磨いていきました。結果として1人対応でズボンの上げ下ろしができたというだけではなく、そのプロセスにおいて苦痛や恐怖心はなかったかなどを聴き取りながら、共により良い技術を開拓していったんですね。互いに馴染む方法にたどり着いた時の利用者の清々しい笑顔は今でも鮮明に覚えて、これぞ介護職の醍醐味なのだろうと、ガッツポーズを決めていたあの頃が懐かしいです。

その人の生活に劇的な変化が起きているわけでもなく、食事も特別に美味しくなったわけではありません。生き甲斐と呼べるような作業の獲得があったわけでもありませんが、確かにその人の内面から見える世界は変わったのだと思います。排泄の度に罪悪感を覚えていたその人の世界において、スッと罪悪感は消失して周囲と変わらない当たり前の行為となる。なおかつ1人の介護職を育成する指導者という役割を獲得しているのですから、日常生活でのその人は笑顔が本当に多くなりました。最近ではQOLという言葉が盛んに叫ばれて、具体的にそれはなんぞや?という感じもしますが、目に見える何かを変えなくても、その人が主観として捉えている世界観に変化を起こすという質の向上は、改めて大切にしたいと思いました。


利用者の生き甲斐という大それたことは自分には分かりませんでしが、生活上の苦痛を取り除くことは少なからずできたような気がします。ベッドと車椅子の移乗についても2人対応が多かったですが、スタッフはそれぞれに動いてますから、利用者から『起きたい!』と要望があっても、相方を探すので対応が遅れます。そうした場合には改めて利用者と対話をして、1人でも対応可能な技術の開拓を利用者と共に行うわけです。自分だけで対応が可能になれば要望に対してリアルタイムで対応できますし、利用者側の我慢も減りますね。起きる・寝る・排泄の迅速な対応という現場の改善だけでも、不思議と利用者は明るくなり、生活の場としての明るさが生まれたことは印象的でした。もちろん1人対応だから素晴らしいということではなく、安全性(転倒事故だけではなく、スタッフ側の過度な負担も含む)を犠牲にした介入はあり得ませんから、力技の1人対応なら安全性に配慮した2人対応の方が優先されるべきです。ただ、多くの場合は技術の改善で利用者生活を好転させることができるという事実は重要な学びになりました。


施設から訪問に移っても色んな出来事がありました。脳腫瘍で日毎に身体機能が低下していった利用者がいました。自分で起き上がることができなくなり、立つこともできなくなり、笑顔を表出する力も失われていきました。その方は薔薇を育てることを趣味にされていたようで、最後に庭にある薔薇を見せに行って上げたいという要望がご家族ありました。玄関から屋外に出るためには数段の階段があって、屋外に出ることを想定していなかったので、車椅子はありましたがスロープはありませんでした。そこで活きたのが車椅子での階段昇降の技術でしたね。

車椅子に移乗して屋外に出ると、近所の方が『久しぶり!会いたかったよ!』と駆け付けてくださいました。その時に見せてくれたご本人の笑顔は素晴らしく、じわじわと深い感情が溢れてきました。


介護職は介護課程の展開という思考過程を学習して、目標を立案するということに慣れています。けれども、時としてそうしたものが一切通じない場面に立ち会うことがあります。屋外に出ることを目標に掲げて、計画を立案して、実践に落とし込むというプロセスを、その人の命の長さは待ってくれないわけです。こうした場面で頼みとなるのは、それまでにストックされてきた技術力なんですね。そうして上げたいという想いだけがあっても、技術がなければ実行できないわけです。

想いがなければ始まらない
技術がなければ進まない…

それが自分たちにとって大切なメッセージになりました。


訪問車で走ってる最中に電話が鳴り響いて、『どうにか助けてもらいたい。』と、ケアマネさんに切実に頼まれたことがありました。こちらの方も癌の末期で、ご本人だけでは寝返りも難しい状態になっていて、疼痛が強く訪問看護の緊急コールが頻発しているようでした。その人には最後の願いがあり、『慣れ親しんだデイサービスに行って、お世話になった方々に挨拶をしたい。』という強い想いがあったようです。どしてもそれを叶えてあげたいとケアマネさんと訪問看護さんが話し合っていましたが、自宅の2階に寝室があり、車椅子ごと降ろせる幅もなかったことから、どうしたものかと悩んだ上での相談でした。急いで駆け付けて介助方法を検討しましたが、全身の痛みが強くてなかなか選択肢の幅が少なかったですが、本人と共に痛みを確認し合いながら調整して、デイサービスに行くことができたんですね。ベッド上では痛みに耐える苦々しい表情で、寝室の全体が重たい空気感でしたが、デイサービスでのその人の表情は明るく、慣れ親しんだ友人に囲まれて幸せそうに過ごされていたと聴いています。

誰もが生きたい場所で生きて
行きたい場所に行けて
逝きたい場所で逝ける…

そんな支援を実践することが、私たちの理念として生成されていきました。はじめからそうしたことを念頭において動いていたのではなく、何も分からないながらもがむしゃらに利用者と向き合い続けることで、利用者が私たちに進むべき方向性を指し示してくれたわけだです。


個人も組織も、成長の原動力は同じのような気がしています。研修による知識や広く情報を集めることを否定はしませんが、本当の答えは利用者の中にあります。その人が感じる願いや苦痛を捉えて、共に乗り越えるパートナーとして課題を突破していく経験の蓄積が、介護職の技術力の引き出しを増やしていきます。人柄の優しさは重要ですが、それだけでは実行できないことが多いわけです。ですから、その優しさを実践するためには、具体的な技術として昇華させる必要があるんですね。ですから『介護職の仕事は洗練された優しさの提供であり、技術は優しさの高度な結晶である。』と説明したりもします。


自分もまだまだ修行中の身の未熟者ですが、技術とは何かという原点を忘れずに、これからも技術の研鑽に励みたいと思います。考え方はそれぞれですが、答えは専門職の議論の果てにあるのではなく、まさに利用者の中にあるわけです。そこに介護を必要とする方がいる限り、その人の可能性を拓く技術とは何かを問い続けていきたいと思います!

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