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コンテクストのあるシャンソンを

岩谷時子が書き、越路吹雪が歌う

60年代・70年代にコーちゃんのファンだった人たちは、彼女の歌は他のシャンソン歌手とは一味違うと感じていたと言う。或る人たちはそれをパリの香りだと感じていたし、別の人たちは越路吹雪の創り出す独特の世界観だと受け取っていた。いずれにせよ、それは彼ら彼女らにとってロングリサイタルでしか味わえない非日常だった。

岩谷時子はパリに行ったこともなければ、まともな恋愛もしたことがない。読んだ小説、観た映画、コーチャンの体験談などに基づいて、想像力を駆使して作詞していたと言っても過言ではない。つまり、歌詞の時点で日本における平凡な日常生活からは遊離している物語を書いているとも言える。
そうした歌詞をパリに何度も渡航している越路吹雪が彼女の感じているパリらしいシャンソンの世界に色付けして唄った。だから、その世界観はオリジナリティに富んでおり、観客にとってみればひと時自分が日本の、東京の、日生劇場にいることを忘れさせるものだった。

銀巴里では社会派の歌を控えていた

♬ 父ちゃんのためなら エンヤコラ ♪
或る日私が小学校から帰ってきたら、母が泣きそうになりながら今朝のテレビで凄い歌を聞いたと言っていたのを思い出す。
それは、丸山(美輪)明宏が木島則夫モーニングショーで白のワイシャツに黒の細身のスラックス姿で登場し熱唱した「ヨイトマケの唄」のことだった。私の母だけでなく、全国中多くの視聴者の胸を打ったに違いない。
ただ、こうした社会派と呼ばれる歌は、当初銀巴里では観客にあまり受けなかったし、美輪も歌唱を控えていたと言われている。
店の名前が示すとおり、銀巴里ではパリを感じさせるシャンソンがその主流であって、観客もその異国情緒を感じようとやって来ていた。そこへ、戦後の復興期に貧しい少年だった主人公が高度成長期にエンジニアの凜々しい青年に成長する物語をいきなり聞かされたのでは、唐突に感じてしまったに違いない。

シンガーソングライターを始める前の丸山(美輪)明宏は、青少年の時に観たフランス映画の想い出だけに頼ることなく、小説や戯曲、時には論説を読んでフランス文化に造詣が深かった。そうした努力の結果として自分のシャンソンに本場の味わいを加えることができ、観客にそうしたパリの雰囲気を感じさせることに成功していた。
岩谷・越路が共作で独自の世界を創り出していたのと同じように、美輪も豊かなナレッジにもとづいて自分の理解するパリを具現化していたわけだ。

芦野宏が薩摩忠と共同作業で

芦野宏は、最初、シャンソンをフランス語で歌っていた。
ところが、そのうち出演していた日劇や放送局などから、原語だけでなく一部は日本語でという注文が出るようになった。
そこで、当時大学の仏文科を出たばかりの薩摩忠と何度も会って、ラ・メールを手始めに日本語歌詞に取り組むことになる。
二人が特に心をくばった点は、二つあった。
一つ目は、日本語のイントネーションで、ラ・メールの歌い出しのところで、海(うみ)と日本語をつけると、「う」が低く「み」が高くなってしまう。これだと「膿」と聞こえて海のイメージが壊れる。そういうこと。
二つ目は、原語に近い音感を維持しようというもので、フランス語の軽い感じが日本語にすることで重くなるのを避けていた。
二人でああでもない、こうでもないと、まさに悪戦苦闘して日本語詞をメロディに当てて行ったわけで、その努力たるや頭が下がる。フランス語と日本語の成り立ち、発音などの知識があってこその業績だと言える。
芦野宏の軽やかなシャンソンは、こうして生まれたのだった。

アダモが日本語詞で歌う

シャンソンの創成期では、上記のように日本の訳詞家は試行錯誤を繰り返しながら日本語詞を作っていた。もちろん、本場パリの歌手たちが来日した時やこちらから訪欧した時に挨拶や軽い会話はしたことがあったが、日本語歌詞がどういう風に書かれているかについて議論する機会など無かった。
ところが1960年代の終わりに、本場の流行歌手に日本語詞で歌わせるという離れ業を成し遂げた訳詞家が登場する。
プロデュースしたのは渡辺プロダクション副社長の渡邊美佐で、歌手はサルバトール・アダモ、訳詞したのは安井かずみで、歌は「雪が降る」だった。
レコード録音はパリのスタジオで行われ、当時としては画期的だった。
実は、安井は新田ジョージとのニューヨーク生活に疲れ、離婚を心に決めてパリのレコーディングに参加していた。既に世界的ヒットしていた曲の日本語ヴァージョンを再録させるに至ったのは、アダモの安井への友情だと言われている。
ただ、忘れてはならないのは、安井かずみがフランス語が話せ、フランス文化を過不足なく理解していたという事実だ。

間違いだらけのシャンソン翻訳

アメーバブログや note などで、シャンソンを翻訳してアップしている例を見かける。それで、興味本位で覗いてみると誤訳だらけであることが多い。
「違ってますよ」とコメントするには、余りにも頻発しているので、私にはとても時間が足りない。
「趣味でやっているんだから、大目に見てやれよ。」と言われるかもしれないが、どうも日本のシャンソンの劣化に繋がる気がしてならない。
もし、その誤訳を参考にして歌っている人がいるのであれば、それは大変な問題だからだ。
シャンソンのお店で披露される歌と同じように、シャンソンの翻訳もアマチュア化が進んでいるように思わわれる。
先人たちパリの雰囲気を伝えようと勉強して努力して創り上げてきた日本のシャンソン界が今、重大な岐路に立たされている気がしてならない。

シャンソンのコンテクスト


フランス語に "contexte"という言葉がある。
辞書を引くと「文脈」が最初に出てくるが、環境や背景、前後関係など幅広い意味を含んでいる。
現在のシャンソン界において、コンテクストをよく理解できずに、翻訳したり、歌ったりしている例がかなり多い。
例えば、1945年の「私の心はヴァイオリン」というシャンソンがあるが、このフランス語歌詞を読むとドキドキするようなエロティックな言葉に驚く。どぎつい単語は使われていないが、accord(ハーモニー)や unisson(共鳴)などの音楽用語を巧みに使って、上品な言葉遣いで官能的な表現をしている。
このシャンソンは、色気のないさっぱりしたボーイッシュな女性がさらっと歌ったのでは意味がない。清楚な美人が時折セクシーな表情を見せて歌うのに適している。
シャンソンは、コンテクストが大事だ。なぜなら、それがフランスらしさ、パリの雰囲気を醸し出すのだから。
辞書引いて一生懸命翻訳しましたとか、何度も歌会に行って練習しましたとか、それも大切かもしれないが、コンテクストを知ることも同様に重要だ。

コンテクストを理解するには、そのヒントを教えてくれる専門家が必要なのだが、今のシャンソン界には蘆原英了や永田文夫のような解説者が少なくなってしまった。
このインテリジェンスの欠如こそが、現在のシャンソン界の最大の問題点だと認識している。







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