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静かなひと

 わたしたちは日本で出会った。フランス人の夫は出会った頃から静かだった。わたしは、うるさい人より静かな人の方が好きだから、まぁ良いかと思っていた。
 自分の意見を言わないのも、思慮深いように見え、『まだ日本語が不自由だからかな』と思っていた。出会った時から、私たちは日本語で会話していた。

 結婚して15年以上経った今も変わらず、夫は無口だ。
 フランス人同士で話している時、おしゃべりで社交的な義理のお母さんがワーッと捲し立てている時も、彼はただ頷く。聞き役なのが好きなんだと思っていた。しかし、私たちが喧嘩した時「いつも誰かの話を聞いているだけ。そんな人生は嫌だ!」「自分の意見を言ってもいつも否定されるから、言うのをやめた」と言った。

 彼が何ごとにつけ、意志がなく見えるのは、彼曰くわたしが彼をそうしたから、らしい。
 それは結構ショックで、ならば、と彼に色々尋ねる。仕事はどう?「…面倒くさいことあるけど、普通。」今日何か行きたいところや行きたいところある?「…ない。」
 話が、話が広がらない。膨らまない。面白くない。
 息子が漫画が欲しいから、と私と夫と息子の三人で古本屋に行く。ガッツリと立ち読みする息子とわたし。日本語で本を読むのは難しい夫は、ただただじーっとしている。時々何かの漫画をペラリと開いたりしながら。1時間以上いただろうか。わたしが彼に気を使って、そろそろ帰ろうか、と息子に言うまで彼はじーとしていた。イライラとしたオーラを漂わせ。言えばいいのだ。そろそろ帰ろうぜ、と。あるいはあらかじめブックオフに行くと言っているのだから、ついてこなければ良いのだ。律儀、なのか。他にやりたいことがないのか、優しいのか、よく分からない。

 ある日、私の仕事や子供の部活送迎や保護者会やら色々やることがあって忙しかった夕方、夫に尋ねる。「夜ご飯何食べたい?」彼は「グラタン」と答えた。
 疲れていて、なんか適当に美味しくて、栄養も偏ってなくて、皆がたくさん食べてくれて、冷蔵庫にあるもので作れそうな簡単な夜ご飯、を答えてくれ。
 疲れた夕方に作りたくないものナンバーワン、それがグラタン、だ。マカロニは家にないから買って来ないといけない。ダマにならないようにバターと小麦粉を炒めて、牛乳を少しずつ入れてのばして、おまけに夫は乳糖不耐性だから豆乳じゃないといけない。豆乳はすぐ分離する。余計手がかかる。豆乳もないから買ってこないと。冷凍庫に小さなエビがあるけど、夫はシーフードが嫌いだから、鶏肉も買わないと。冷凍庫にピザ用チーズがあるが、量が足りない。それも買わないと。ベシャメル作って、マカロニ茹でて、玉ねぎ、ブロッコリー、にんじん、鶏肉とあえて、チーズ載せて、あらかじめ温めたオーブンでこんがり焼く。疲れきった夕方に…。

 夫を見た人はみな、「優しそう」と言う。わたしの母親でさえ、夫に初めて会った日、私に「あんまり彼をいじめないでね」と言った。夫は確かに優しいんだと思う。でも優しいってなんだろう、とも思う。砂漠で喉が渇いた人に、熱々のココアを差し出すこと?足が痛くて歩けないと嘆く人に、でも僕の方が足が痛いんだと、論文や詳細なデータを示すことは優しいんだろうか?イライラとしたオーラを漂わせ、理由を聞けば「別に」という。ならば、と放っておけば、絶望したと、家を出る。わたしからの愛を感じなかった、と。わたしは聞きたい。お前は、わたしに愛を伝えたのか?
 洗ったお皿は皿ふきで拭け。お前がいつも皿を拭くのに使うそれは、何度も言うが、手を拭くタオルだ。あんたが出て行った日の朝、喧嘩した理由も、それだ。今まで何度も言ったし、それでも直らず間違え続けて、あぁ、相手は変わらない、自分が変わらないと。まだ期待していた、期待してはダメだと、ずっと我慢していたけども。

 夫が出て行って、ぐちゃぐちゃの期間があって、何週間が経って、週末子供に会いにきた夫にわたしが食事を作って、洗い物をしていると、優しいあなたは食器を拭いてくれた。
 そう、タオルで。
 もう苦笑いしか浮かばなかったよね。
 わたしね、あなたと結婚した時、あぁ、幸せになれる、と思った。
 幸せにして、なんてこれっぽっちも思っていなかった。家にあなたがいて、子供がいて、もうこれ以上何もいらないな、と思った。
 でも色々なことを願ってしまう。まだ幸せを願ってしまう。目の前の幸せにも飽きてしまう。わたしは愚かだ。

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