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ワサビの子

 2023年1月の終わり、よく晴れたある日、帰ってきたら旦那がいなくなっていた。
 一人、家にいた高校生の娘は、泣いていた。
 「パパ、行っちゃった」と言って、さらに涙をこぼした。
 家の中に、彼の荷物は綺麗サッパリ無くて、パソコンを置いていた巨大な黒い机だけがポツンと残されていた。
 
 その前日、娘と夫の3人で、ピザ屋さんに行った。いつもと同じだった。娘の頼んだデザートにアルコールが効きすぎていて、3人で笑った。小学生の息子は、栃木にキャンプに行っていた。今日寒いけど、雪、大丈夫かな?寒くないかな?と、夫婦で心配した。
 
 その翌日のことだった。旦那がいなくなったのは。何も告げず、理由も言わず。
 
 案外冷静だった。キャンプから無事帰った息子は疲れていながらもとてもキラキラしていて、そんな彼に私は事実を伝えられず、「パパ、今日は会社のそばに泊まるって」
 息子は明るい声で「パパ、浮気してんじゃない?」と笑った。
 目を赤くはらした娘と、案外普通の私、キャンプの思い出を意気揚々と話す息子の3人で、夜ご飯を食べた。
 食事が終わった頃、息子にラインが届いた。
「え、なっが」と言った息子の表情がみるみる曇る。「パパ、もう帰らないって言ってる」
 
 私には何も告げなかったのに。
 息子には全てを告げるの。
 
 『愛する息子よ。私たちは別居することにしました。あなたのお母さんとうまくコミュニケーションがとれないので。よく怒られるし、それを避けることもできない。怒鳴りあっているより、別居した方がいい。
 東京の職場の近くに、1ヶ月使えるシェアハウスを見つけたので、そこに滞在します。
 君の人生が大きく変わるから、うまくやりたかったけど、できなかった。
 ママと暮らすのが面倒になったら、パパが君たちの近所に住んで、お姉ちゃんと3人で暮らすことも考えられるし、色々な可能性があります。
 ママと何度か離婚の話をしたけど、君とお姉ちゃんは私たちが愛している素晴らしい子供達なので頑張ってきました。私たちは数年間共にいましたが、残念ながら最近は難しくなってきています。
 簡単なことではありませんが、みんながより良い未来を手に入れられることを願っています。
 息子よ、とても愛しているよ!』
 
 文面がクサイのは、旦那が外国人でフランス人だからです。
 私と旦那の出会いは、日本。私は英語もフランス語も話せなかったので、私たちは最初から日本語で会話していました。
 『フランス語で話せば?』と時たま言われますが、想像してみてください。
 あなたは、あなたのお母さんとある日突然、英語で会話しますか?
 関西弁で話す幼馴染と、ある日突然「うちら今日から東京弁話さへん?」となりますか?
 そう、なかなかに難しい。
 
 さて、話が逸れました。
 その夜、夫が出て行った夜、子どもたちがそれぞれの時間を自分の部屋で過ごす夜、私は一人、リビングでテレビを見ながら先ほどのラインを反芻していました。
 何よりもまず、『私たち』という主語が引っかかります。『私たちは別居することにしました』…え、一人で決めたよね。
 『もしママと暮らすのが面倒になったら』…は?あんたから見たら悪い妻でしょうけど、良い母親になろうと頑張ってきたんでしょうが。お前は何をみて、勝手に決めつけてるんだ。『怒鳴りあっているより、別居した方がいい』…怒鳴りあって、いないだろ!ケンカになると、お前はいつも二言目には「離婚だ!」って言うだろ。すぐ、すぐ、すぐ!その言葉がどんなにずるいか、分かってるのか。逃げだ。20年近く過ごしてきた時間を、一瞬でぶち壊して、荒野にする、ずるい言葉だ。私は、それが嫌で嫌で、あんたに文句があっても、言わないように、耐えて耐えて、耐えて、耐えて…そう、耐えて、期待せず、自分が変わればいいと耐えて、冷たく心が凝固していった。汚い、どろどろとした澱が足元から溜まって、もう身動きがとれない。
 
 テレビを見る。安曇野の大王ワサビ農園だ。もうずっと前、行ったな。私の両親と義理の両親、まだ幼い娘。農園の主人がワサビの育て方の説明をする。『ワサビの生育には、24時間ずっと清涼な水が必要なんです。そうじゃないと、ワサビはワサビ自身が持つ、辛味成分にやられて、根が弱ってしまう』
 私はハッとした。
 私は、ワサビだ。自家中毒で今にも腐りそう。
 私には水が必要だ。清涼な、こんこんと湧き出る澄んだ水。そう、私のドロドロを吐き出そう。

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