どらごん

真面目なこと、楽しいこと、仕事やその他いろいろその時考えていることを書きます。 目指し…

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真面目なこと、楽しいこと、仕事やその他いろいろその時考えていることを書きます。 目指しているのは毎日寝る時に今日も一日楽しかった~!と思えること。

最近の記事

脚のストレッチ

右脚がほんの少しX脚、膝にも痛みがあって針も打っている。 理学療法士Aさんと鍼灸師Kさんから今言われていることは、 膝裏ともも内側が硬いからほぐすこと お腹のインナーマッスルを鍛えるために膨らませた後、吐きながら背中で床を押すこと この2つ。暖かくなってきて、突然サッカーの長友を思い出した。学生時代、ケガをした時にインナーマッスルを鍛えて体を変えたこと。 いきなり全てを変えるのは大変だから、1か月言われているメニューをこなすことに決めた。・・・もう2週間経ったけれど。

    • 筋トレと柔軟 痛みとさよならしたい

      2020年春に膝に痛みが出てから、首肩腰にも痛みが出てきて・・・。 病院でリハしても痛みが無くなれば筋トレも止めると言う有様。 ’23年11月末、心を入れ替えて本気で筋トレと柔軟に取り組み始め、数か月かけてようやく膝の痛みの原因が分かってきたかも。 運動習慣が無かったのが何とか続いている・・・けれど。最近停滞気味。そこで自分を鼓舞するためにも note にメニューと回数、体の変化をメモ代わりに書くことにした。週1回、書けるかな。2年後に思い描いている理想の自分になっていた

      • 父のこと。戦争による複雑性PTSDと認知症の周辺症状のこと エピローグ

        家族を大切にして仕事を一生懸命にしても、戦争を経験している人たちは戦争の話をしない。戦地に行かなくても、原爆や沖縄戦、全国の空襲で生き残った人たちも。父もその一人。それだけ思い出したくない、言葉にできないほどのこと。 子供の頃は両親から大事にされて、子供らしいわがままもあった。条件付き愛ではなく、家は本当に安心できる場所だった。父親が病気で倒れたのは私が30代になってから。 認知症についても複雑性PTSD同様、心が追い付かなくて十分に調べられない。まだ知らない・わから

        • 父のこと。戦争による複雑性PTSDと認知症の周辺症状のこと 7

          私も以前とはだいぶ気持ちが変わってきた。業って何だろうと思う。 父への気持ちが変わることで他の事や人への気持ちが少しずつ変わってきて、出会う人たちも以前とは変わり始めている。 戦争に強く反対する。 10年以上前、ショッピングモールで多くの人を銃で殺して、自分も自殺すると言うニュースがアメリカで多発した。犯人はアフガンなどからの帰還兵。アメリカではようやく国が補償について動き出したらしい。 国や人種、宗教など関係なく戦争が人を壊す。こんなつらくて苦しい事は終わらせた

        脚のストレッチ

          父のこと。戦争による複雑性PTSDと認知症の周辺症状のこと 6

          複雑性PTSDについてもっと詳しく調べようとしたけれど、できなくなっている。心が全く追いつかなくて。 誰も怒鳴り散らしていた時の父を診断できなかったから、本当のことは分からない。始めは複雑性PTSDかもと思い、今は血管性認知症の周辺症状と戦争による何らかのPTSDが混ざっていると思っている。 叔父が話せるうちに聞けて良かった。本当に。70年代の「ルーツ」を思い出す。 これを読んだ人たちも自分の何世代か上の事を調べてみてほしい。教科書には載っていない、自分の家族の歴

          父のこと。戦争による複雑性PTSDと認知症の周辺症状のこと 6

          父のこと。戦争による複雑性PTSDと認知症の周辺症状のこと 5

          空襲の時4歳だった叔父はその時のことを写真として覚えているよ、と話してくれた。戦争が終わっても、家族や友達とも、他の誰とも戦争の話をしたことが無いことも教えてくれた。 気が滅入るからさ。前を向けるような話をしていたよ。言葉にできないようなことだったから、自ら記憶を消した人もいると思うよ 自ら記憶を消したのは叔母・父の妹。戦争の事を聞いてもほとんど覚えていない。あまりに辛すぎてそうしたんだろう。叔母は情の厚い人だから。 戦地から帰ってきた人だけでなく、戦争を生き延び

          父のこと。戦争による複雑性PTSDと認知症の周辺症状のこと 5

          父のこと。戦争による複雑性PTSDと認知症の周辺症状のこと 4

          沖縄戦で生き残った人の中で一番忘れられないのは「におい」と話した記事を読んだことがある。 空襲が終わった後、あちこちに黒焦げの遺体の山。写真や映像からにおいは伝わらない。 1945年6月に父の長姉がタイピストの求人を見て、満洲に渡ったそうだ。終戦まで二か月無かったとのこと。ソ連兵から守ってくれた中国人に匿われて、その人と結婚。 叔父の記憶があいまいだけど、1950年代にこの伯母が日本赤十字の尽力で一時帰国したらしい。昭和33年(1958年)に亡くなったとのこと。

          父のこと。戦争による複雑性PTSDと認知症の周辺症状のこと 4

          父のこと。戦争による複雑性PTSDと認知症の周辺症状のこと 3

          父は私が中学生になったころから働かなくなったし、脳出血で倒れてからは母に対する暴言暴力が始まった。 発狂しているかのような怒鳴り声、そのストレスで母も脳出血になり、認知症になり、逝ってしまった。 どれだけ父を憎んだかわからない。 あいつが先に死ねばよかったのに 従妹がすぐに それ言っちゃダメだ と言ってくれたから、それ以来口に出したことはない。 それほど憎んでいた父だけど、 赤紙が来たら埼玉の山奥に逃げようと思っていた これも父が戦時中の事を話してくれたこと。

          父のこと。戦争による複雑性PTSDと認知症の周辺症状のこと 3

          父のこと。戦争による複雑性PTSDと認知症の周辺症状のこと 2

          父は子供の頃の話をほとんどしたことがない。だからほとんどは叔父から聞いた。 1945年3月10日、東京大空襲。 この日、次姉17歳、弟9歳7歳を亡くした。同じ方向に逃げると全員死ぬかもしれないから、と二手に分かれて。 父親(私の祖父)と一緒にいた3人が死亡。祖父も生死をさまよう大やけどを負ったそうだ。戦争が終わる5か月前、清潔なガーゼや薬などある訳もなく。 運が良かったのは祖父の実家が農家だったから、卵があった。 叔父によると祖父は半年くらい、卵風呂に浸かっていた

          父のこと。戦争による複雑性PTSDと認知症の周辺症状のこと 2

          父のこと。戦争による複雑性PTSDと認知症の周辺症状のこと

          プロローグ 父親が嫌いだった。 さんざん母に迷惑かけてきたのに、病気で半身まひになってから発狂したように母を怒鳴りまくり。あげく母を病気にして先に死なせたから。 ある時複雑性PTSDのことを知り、叔母特に叔父から家族の歴史を数回にわたって聞いてみた。 始めは父に対する怒りや憎しみの方が大きかったけれど、少しずつ気持ちが変わっていった。 父は1930年東京生まれ。戦争を経験している。 戦争を生き抜き、母と結婚して兄と私が生まれた。子供の頃は両親から愛情を注がれ護られて育

          父のこと。戦争による複雑性PTSDと認知症の周辺症状のこと

          はじめまして

          長年事務職をした後、起業しました。今は個人事業と介護ヘルパーのバイトをしています。働き方や介護、家族や健康、遊び方など20代30代の頃とは考えが180度変わりました。 色々失敗してきたからこそ、本当に大事なものは何かが見えるようになってきました。その時々に考えていることを書こうと思います。

          はじめまして