見出し画像

不意に届いた友人の訃報、いつまでも明日があるわけじゃない

数日前に、久しぶりに友人Hちゃんから連絡がきたんです。
「突然なんだけど、Tちゃんが亡くなったんだって。」

「・・・?」言葉を失ってしまいました。

最後に会ったのは、2年前。
「また会おうね」と言って別れたけれど、「また」はなかったんです。


友人の訃報

友人、TちゃんとHちゃんは、私の三男の同級生のお母さん。
三男が小学生の時に、一緒にサッカーをしていた3人のママ友って感じでしょうか(笑)。

何となく、気があって、時々3人で会っていたんです。
子ども達が中学生になると、3人が別々の中学校に行ったのですが、私達は、年に1~2回のペースで会って話をするくらいの、適度な距離感で付き合っていたのです。

私が、2年前に富山に引っ越しすることが決まっていたので、引っ越し前に会おうって、3人で会ったのが約2年前。

それから連絡も取っていなかったのですが、久しぶりの連絡が訃報だったわけなんです。こんなことってある?って思いました。

癌だったそうで、闘病中は人に知られたくないって言って、あまり人には伝えていなかったそうです。

2022年の秋に、腹痛が原因で受診して癌が見つかり、その時点でかなり進行していたらしい。開腹手術をしたけれど手術はできず、そのまま閉じたんだそうです。それから、約1年の抗がん剤治療を始めたけれど、手術ができる状態にはならなくて、余命1か月と言われて家に帰ったのが2023年11月。

自宅療養を続け、余命1か月と言われていたけれど、お正月は家族で初詣に行き、家族でラーメンも食べたんだとか。

でも、それから体調を崩し、日に日に弱っていって、今月亡くなったんだそうです。弱っていく時は、本当に、昨日できていたことが今日出来ない、そんな状態になったんだそうです。例えば、コップが持てない・・・、携帯が使えない・・・。私たちの当たり前が当たり前じゃなくなる現実とどう向き合っていったんだろうなぁ・・・。そんなことを考えさせられました。

亡くなった時は、家族が揃うのを待っていたかのように息を引き取ったそうです。どんな思いだったんだろう、Tちゃんも、ご家族も。

この2年間、連絡もとっていないし、会ってもいないから、私にとっては何も変わらないんだけれど、友人の死って、なんだか心がぽっかりと空くような、なんとも言えない寂しさがありますね。

信じられない気持ちもまた・・・。

死に時を自分で選ぶ

Tちゃんが自宅での療養を選んだと聞いて、家族が大切だったんだろうな、そして、家族にとっても大切な人だったんだなって、改めて思ったんです。

自宅での療養って、やっぱり家族の大変さってあると思うんです。でも、病院はコロナ禍になって、面会自体がすごく制限されているし、自由が利かない。

自宅はやっぱりいいですよね。

でも、そのためには、家族の協力が必要で、ご主人は介護休暇を取ったり、訪問診療の先生に来てもらったり、訪問看護師さんにきてもらったり、そんなふうに環境を整えることも必要。

Tちゃんは、最後の時を自宅でと思っていたんだろうなぁ・・・。
そして、子どもが仕事から帰ってくるのを待って、息を引き取ったんだとか。自分で決めたタイミングだったのかもしれないですね。

人間って、いつ死ぬかなんて決めることはできないんだけれど、私も看護師になっていろんな方の最後の時をみてきた時に、人って自分で死に時を決めてるんじゃないかって思うことも多かったんです。

私が看護師として仕事をしていた時、ずっと付き添っていた奥さんが、ちょっと離れたすきに息を引き取った・・・みたいなことって時々あって、わざと誰もいなくなった時を選んだのかな?って思うことがあったりしました。

もちろんTちゃんのように、家族が揃うのを待って息を引き取るなんてこともありましたし。人間って不思議、偶然はないのかもしれない。

やっぱり1日1日を大切に

月並みだけれど、やっぱり、今が当たり前じゃないって思いましたね。すぐに日常に戻って忘れてしまうんだけれど。

連絡をくれたHちゃんと、子どもの成長のことや、心配することなど話していて、結局、いつも心配したり、悩んだりするけど、でも、悩めるだけ幸せだよねって言ってて。

いつまでも明日がくるわけじゃない。
そんなことをHちゃんと実感したんですよ、ホント。

Tちゃんって、すごくさっぱりした気のいい人でね。今まで連絡も取っていなかったのに、すごく思い出されてね・・・。
Tちゃんのご冥福をお祈りいたします。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?