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河津桜の季節に思う、死生観を考える

3連休の最終日となりました。
明日から、仕事が始まります。
この連休に帰省していた次男も無事に帰り、日常が戻ってきました(笑)。
慌ただしく思う気持ちもありましたが、やっぱり帰っていくと、ちょっと寂しくなるものですね。

今日は、noterさんが、河津桜が満開だったと投稿されていたので、ちょっと昔のことを思い出し、自分の死生観を書いてみようと思います。考えるきっかけになれたらうれしいです。

河津桜、きれいですね(^^)


河津桜の思い出

少し前まで、千葉県の病院で看護師として働いていました。

その患者さんとの出会いは、もう10年近く前になるのではないかと思います。がんを患い、終末期の患者さんでした。

入院していたのは1月くらいだったでしょうか。
自分の死期を悟った患者さんが、自分の寿命を確認するのに聞く言葉。
「先生、私、桜みれるかしら?」

これは、ソメイヨシノを指している言葉だと思うのですが、この時に主治医が言った言葉。

「河津桜ならみれるかも」

一緒にいた緩和の看護師と、目を見合わせたことを覚えています。
パチクリ!

終末期の患者さんをみる経験が浅い、すごく素直なところがある医師なので、ホントに質問の意図とか考えずに、質問に対する返答を言ったのです。

「そういうことじゃないんだよなぁ」と思ったことを、いつもこの時期に思うのです(笑)

余命を伝えることを否定するわけではなくて、質問の意図とはかみ合わない医師の返答に、このあと、どう患者さんの気持ちに寄り添っていこうかと悩んだような気がします。

結局、少しですがこのあと自宅に帰って過ごしていただいたりも出来ましたし、最後の時間は病院で迎えることになりましたが、私にとって忘れられない患者さんの一人となりました。

なので、いつも河津桜をみると思い出してしまうんですよね。

最後の時をどう過ごすか

有料放送なのですが、先日、木下斉さんが病院に入院して感じたことを放送されているのですが、入院中の高齢の患者さんをみて、死生観を考えるって大切だと話されていました。

病院に入院している患者さん達。
私が看護師になった30年前と比べて、明らかに高齢化がすすんでいて、急性期の病院でも高齢者、認知症の患者さんが多く、看護師等の職員の手がすごくかかります。

そして、私が看護師になった頃は、家族の付き添い、家政婦の付き添いなどができましたが、今は完全看護になっているので、家族の付き添いは基本的にできなくなっています。

なので、患者さんは一日中ベットにいて、病気の治療のための入院のはずが、病気は治っても身体機能が落ちて、認知症がすすむ、そしてもとの居場所に帰れない、こんな悪循環となっていることが多いのです。

そんな過ごし方を望んでいたのかどうかわかりませんが、本人の意思を確認することもできないですし、家族も、見殺しにはできないけれど、自分たちでみることもできない。そうやって、入院期間が長くなり、施設に入所する方が増えていくのです。

そんな中、時々「自宅でみます」というご家族がいます。

そのうちのお一人、Tさんは、ほぼ寝たきりで、食事も十分に摂れない状態でした。それでも、自宅で看取りになることも覚悟で退院しました。

退院して暫く経ったころ、ちょうどソメイヨシノの開花時期でした。

「家でどうされているだろうか・・・。」

そう思って訪問看護師さんに電話をかけて聞いてみると、車椅子で近くの公園へ散歩に行き、花見をして、大好きなお酒も少し飲んだんだそうです。

食事があまり摂れなくなっても、大好きなもの(お酒)なら食べられるって、いったいなんなんでしょうね・・・(苦笑)。
ホントに不思議です。

“食べる”って嚥下機能だけじゃない何かがあるんでしょうね。本能というか、感情というか、何かが関係するんでしょうね。

こんなふうに最後を過ごすには、家族の協力が不可欠です。だから、自分の過ごしたいように過ごせるかなんてわからないけれど、Tさんはすごく幸せな時間を過ごせたんだなぁ・・・そんなふうに思いました。

あのまま、病院にいたら、全く違った時間を過ごすことになったでしょう。残された時間をどう過ごすか、家族の中で話をしておくことはとても大切なことだと、考えさせてくれる出来事でした。

私の死生観

私は、どんな死生観を持っているか。

人生会議なんていう言葉もありましたが、よく言われるのは、延命治療をどうするか。呼吸が止まったとき、心臓が止まったとき、心臓マッサージや人工呼吸器などの、一般的に言われる延命治療を望むかということ。

そして、もう一つ大切なことは、食事が摂れなくなった時の栄養方法をどうするか。よく、手段で語られることが多いですが、手段ではなく、強制的な栄養方法を選択するかどうかを考えたらいいのではないかって思っています。つまり、自分で食べられなくなった時に、自然の流れに任せるのか、それとも、強制的な栄養方法をするのか。強制的な栄養方法を選択する場合に、胃ろう、経鼻経管栄養、中心静脈栄養など、どの手段を選択するのか。

私は、助かる見込みが少ない場合の延命治療は希望しませんし、食事が摂れなくなったら、そこまで。強制的な栄養は希望しません。

そして、これは、子ども達にも会う時に伝えていこうと思っています。今回、次男には伝えています。家族内で共有することも大切なことです。

そして、もう一つ。自分がどんなふうに生きたいか。どんな場所で、どんなふうに最後を迎えたいのか。そういうこともしっかり考えて、家族の中で共有していきたいって思っています。

あなたが生まれたとき、あなたは泣いていて周りの人達は笑っていたでしょう。
だから、いつかあなたが死ぬとき、あなたが笑っていて周りの人たちが泣いている。そんな人生を送りなさい。

ネイティブアメリカンの教え より

こんなふうに生きていけたらいいのかなぁ・・・。

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