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GR@DATE WING07ーノクチルと時間

 「ノクチル」の楽曲。

 シャイニーカラーズゲーム内での、今CD収録曲「いつだって僕らは」の発表当時から、爽やかなメロディラインと、まだまだ全体像の見えていなかった「ノクチル」というユニットを表していくことになるはじまりの歌詞、その内容が注目を集めていました。

 そこから少し時が経ち、「あの花のように」のゲームサイズが公開、ユニット名「ノクチル」の語源である「ノクチルカ」繋がりで、かねてから連想されていたバンド「nano.RIPE」のきみコさんが歌詞を手掛けていることもすぐに発表され、シーンでは大きな反響がありました。

 そして9月16日、アイドルマスターシャイニーカラーズから、待望の新譜「THE IDOLEM@STER SHINY COLORS GR@DATE WING 07」通称、ノクチルのCDが発売。めでたい。

 そんなわけで、「いつだって僕らは」「あの花のように」の2曲のフルサイズから受けた印象について書き殴りました。

解釈なんて高尚なものではなく、オタクの長い感想をお話したかっただけの代物ですが、解釈に取られるような言葉遣いもしていますので、そのへんはご注意ください。

光あつめて 響けとおくへ

きっと夢は叶うよなんて 誰かが言ってたけど  その夢はどこで 僕を待ってるの        きっと憧れているだけじゃ だめだって知ってるんだ僕の靴はまだ白いままで

 唄い出しの歌詞から攻め攻めな「いつだって僕らは」。ノクチルとなった少女たちのいままでとこれからを感じせる、最初のユニット曲には、「停滞からの脱却」が歌われているように思います。

 1番Aパートのたった4行、4人のユニットのうちの2人分のパートだけで、それまでの彼女らを取り巻く「停滞感」を表現しきっていることには脱帽と言う他なく、なかでも「僕の靴はまだ白いままで」が持っている意味が大きく感じます。

 「白い靴」が本来持つ連想語(イメージ)は、「清潔」、「爽やか」、「卸し立て」とか「新品の」など、真新しく、穢れのないというイメージです。                          

 もちろんそういったイメージも含んでの言葉選びだとは思いますが、この楽曲のなかにおいては、汚れていないところから発展して、「歩いていない」停滞を示しているように思います。そう思わせるのには「ままで」という言葉の働きが大きいですが、話が逸れるので割愛。アイマス曲の歌詞は言葉以上に言葉に意味を持たせていると感じさせられることが非常に多いですが、この「白い靴」の扱いはそういったものたちと同じように、とっても秀逸です。

小さくてデコボコ 儚い光たち         まだ頼りなくて 揺らめいた          ひとつひとつ(合わせていこう)        パズルみたい(つなげていこう)        かすかに希望の音が聞こえたんだ

 1番Bパートからは、声色の(比較的)明るい二人のパートになり、歌詞も前向きなものになっていきます。1Bパートの歌詞はラスサビ前にも繰り返しで配置され「かすかに希望の」→「確かに希望の」という変化は非常にエモーショナルです。

 1番Bパートの歌い出しには「小さくて」「頼りなくて」「儚い」、前述の「白い靴」とは裏腹に、ともすればネガティブな形容詞が続きます。

 それらが合わさって、繋がって、希望となる。そんな彼女らの在り方を示す歌詞は、サビでそれを決定的な物にします。

光集めて 響け遠くへ(せーの)        未来を呼んでみようよ

 前述のような流れを汲んでのこのサビ入りの歌詞、本当に本当にすごいと思うんです(語彙力喪失)。

 説明のために一度お話は飛んで、2番Bパートの話になります。

手と手をほら(重ねていこう)         気持ち全部(ぶつけてみよう)         みんなが一緒なら知らなかった世界さえ見えるよ

 手を重ね(触れあわせ)、気持ちをぶつける。身体的、精神的な接触は、ノクチルの語源、ノクチルカ(夜光虫)の特性との重ね合わせにも思えます。シャニマスが好きなオタクの多くは、ノクチルの発表以来、一度は夜光虫について調べたんじゃないかと思っているのですが、どうなんでしょう。ともかく、夜光虫は刺激に反応して発光する特性があります。そのことを踏まえて、サビを改めて見ていきます。

光集めて 響け遠くへ

 シャニマスらしく、アイマスらしい一行。ですが、ノクチルだからこその一行だと思います。言葉通りの意味に加えて、もうひとつのノクチルカ的意味を獲得するからです。

いつだって僕らは 精一杯僕らは        昨日よりもっと強く光れ(今)光れ(今)

 ひとつひとつは「儚い光」ですが、ノクチルたる彼女らは互いに刺激を与えあって、みんなで光ることで、遠く先の「明日」を「未来」に自分たちの今を響き渡らせていく。「光集めて」には、互いの思い出を増やして、あるいは思い出して、そうして光った一人一人が「集まって」、「昨日」より「今」を光り、「今」をまた「未来」「明日」に繋いでいく。そんな決意が「いつだって僕らは」には歌われていると信じたいのです。

 何もせずに勝手にやってくる未来ではなく、自分が呼んだ未来を選んでいく、そんな楽曲だと思います。シナリオ的には「みんなでいる未来」を選ぶという決意。それを確固にするための勇気を「みんなで」という部分に重きを置いて歌われている。そんな曲かなと思いました。

止まらない時のナカで

 「あの花のように」正直、自分の中で期待値が大きすぎて、それを超えてきてくれたことが今とても嬉しい一曲です。

 さて、この曲には、「夏」「時間」「花」といくつかのキーワードが散りばめられています。

今は朧げで小さな灯でも 夏の魔法をカラダに纏い鮮やかに夜を彩る あの花のようになれる気がしたきみとなら

 「小さな灯」「夜を彩る」などのところから、モチーフは「花火」なんだろうなと感じますが、やはり主題は、「誰かと一緒により大きな輝きを手にすること」にあるように思います。曲内で繰り返し歌われる「きみと」という歌詞があります。この曲において印象強いのは、「きみと」共にいること(いれること)が強調されることで、浮き上がるように「きみ」がいないとき、自分は小さなひとりであることが見えてくるところだなと思います。

 「あの花のように」を包んでいるのは、大胆かつ繊細な時間の概念です。

 すぐに消えるようなものにこそ 眩さと強さを覚えてしまうから

 刹那の一瞬が持つ鮮烈さ、終わりの輝きが歌われているかと思えば、

ゆっくりと色を変える 夏の終わりはどこへ続いてるの止まらない時の中で 色付き始めた僕らを連れて

 緩やかに、やがてくる終わりの入り口に立つことを「色付きはじめた」と歌う。

「永遠」に届くような「瞬間」を 息継ぎもしないで泳いでゆこうよ

 そしてはっきりと示される、「永遠」に届くような「瞬間」という、二律背反の時間。この曲で一番解釈の余地が広そうな部分だと個人的には思います。「瞬間」を「永遠」に続けていくのか、「永遠」よりも熾烈な「瞬間」を得るのか、他にも色々とあるでしょう。

今も思い出にかわりゆくけど 繋いだ手は離さないように繰り返す季節を抜けて どこまでももう行ける気がした

 ですが楽曲は、夏の終わりのその先に向かうことを選びます。何度も終わって、何度も初めて、止まらない時間のなか、「今」を「思い出」「昨日」に変えながら、共に「未来」を目指していく。こうした部分は「いつだって僕らは」と共通する部分で、ノクチルというユニットの核にもなるのかなと思います。

いつか解けてゆく魔法も超えて         僕の光で未来を照らせるように

 楽曲において、非常に難解なキーワードである「夏の魔法」。難解で言葉にできないなぁと思うのと同時に、言葉に出来ずともなんとなくぼんやりと意味が分かるような、そんな不思議な言葉だと思います。無理矢理に言葉を紡ぎ出すなら、「魔法」が解けて初めて「きみと」が持っていた閉鎖的なイメージが解放されるような印象があります。依存ではなく、選んだ「きみ」の「となり」ということでしょうか。

 曖昧だった「きみとなら」「気がした」が「きみと未来へ向かうよ」という確信に変わったこと。それは「気がした」ことを証明するために動き出したからに他ならないのではないでしょうか。


「いつだって僕らは」「あの花のように」

 ノクチルというユニットを象徴する2曲。そして共通曲「シャイノグララィ」。言葉のまま、俺たちの伝説はここからだとでも言うように、走り出した少女たちの一歩を感じるCDだと思います。「駆ける」というイメージではなく「駆け抜けていく」そんな美しさのある楽曲だと感じ、また、そうしたイメージは、彼女たちがノクチルという物語を背負っているからなんだろうなぁと思います。

 「花」はいつか散ってしまうものですが、それでも「いつだって僕らは」と、いつだってみんなとなら——。そうあろうとする彼女たちの今後に希望を込めまして、クソ長感想文の締めとさせていただきます。

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