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ラルシュかなの家に戻ります 平石祐哉(ひらいし ゆうや)

 私は2021年5月まで5年半ほど、ラルシュかなの家のアシスタントとして働いていました。「別の障害福祉の現場も知りたい」「コロナ禍の中、一旦、地元に戻りたい」ということで、2021年5月から2年間ほど出身地の横浜市に住み、横浜市内の施設で働きました。
 今年の7月からまた静岡に戻り、かなの家のアシスタントとして再び働き始めます。
 「また静岡に行って前の職場で働く」ということを、横浜で周囲の人に話した時、訝しがられることもありました。
「平石さんは横浜出身なのに、また静岡に行くの?」
 私自身が静岡というまちに魅力を感じているのは確かです。8年前に初めてかなの家に来た時、安倍川にかかった狩野橋から見える風景の美しさに驚きました。
 静岡駅の周辺は利便性が高く、静岡県限定のチェーン店である某ハンバーグ・レストランは確かに美味しいです(土日祝日はかなり並びますが……)。
 しかし、私が静岡に戻るのは、ハンバーグ・レストランに並ぶためではなく、そこに会いたい人たちがいるからです。

 横浜市に住んでいた2年間の間、私の心の中には常にかなの家の人々がいました。かなの家のなかまである藤田さんは私によくB’zの話をしてきてくれましたが、横浜でもB’zを聴いていると、藤田さんの朗らかな表情をよく思い出しました。Facebookでフランスのラルシュの情報を見る度、仁さんと一緒にフランスのラルシュに滞在した10日間のことを思い出しました。横浜市内の施設で利用者の支援を行っている中でも、その利用者に似たかなの家のなかまたちの顔や声を思い出しました。特にダウン症の利用者の方と関わっていると、かなの家のダウン症のなかまの姿が脳裏に浮かびました。
 
 横浜に住んでいる2年間、練馬区上石神井にあるイエズス会の黙想の家で、ある神父様の黙想会に3回ほどあずかることがありましたが、その時にもかなの家やリトリートで体験したミサや祈りの場を思い出しました。その神父様はかなの家でもミサを捧げてくれた方で、黙想会のスタッフや参加者にもかなの家と関わってくださる方がいました。上石神井黙想の家では、レンブラントの『放蕩息子の帰還』のレプリカが飾られています。
 カトリック司祭のヘンリ・ナウエンはこの名画とカナダのラルシュでの体験をもとに『放蕩息子の帰郷』という本を書き上げました。ナウエンの本で、私はラルシュを知りました。上石神井の黙想の家で、ラルシュかなの家と私自身の繋がりに感謝することができました。
 
 かなの家に戻るのを決めたのは昨年の秋頃です。転職してから1年半が経ち、そろそろかなの家で再び働き始めたい、ということで、かなの家を訪問し、コミュニティ・リーダーと話をしました。

 私がかなの家を訪問した日、食堂で誕生会が行われました。コロナ禍で誕生会はしばらく行われていませんでしたが、その日は久しぶりに皆が誕生者を祝う気持ちで場が満たされていました。元々は月1回に行われていた誕生会。その月に生まれたなかまやアシスタントに対して、皆が祝福のメッセージを送る、印象深いイベントです。私もコロナ禍の前は何度も何度も参加しました。誕生会で、私は久しぶりに大介さんの車椅子を少し押しましたが、車椅子を押す感覚を自分の体はよく覚えている、と感じました。

 私はかなの家以外に、イギリス2つ、フランス2つ、フィリピン1つ、計5つのラルシュのコミュニティを訪問したことがありますが、どこの国のラルシュに行っても、祝いの場となかまたちの喜ぶ顔があり、「それこそがラルシュの本質(?)なのかな」と感じていました。フランスのラルシュ・トロリーの全体会議も、フィリピンのミサの後のパーティーも、祝祭の空間が醸成されていました。その日のかなの家の誕生会にも私が感じた「ラルシュの本質」(?)がありました。そのためか、かなの家に戻りたい、という自分の気持ちをリーダーに素直に話すことができました。

 かなの家で再び働き始めることが決まった後、夢を見ました。夢の中、私はかなの家の作業所にいて、一人のなかまに話しかけていました。他のアシスタントたちと共に、そのなかまの支援をどうするべきか、話していました。夢の中での私は私なりに真剣に支援について考えていたのですが、横浜で目が醒めると、「自分はまだかなの家のアシスタントではない」ということに気が付き、まだしばらく彼らに会えないことを残念に思いました。

 「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び」(旧約聖書「詩編」133:1-3)
 また、このコミュニティで働けることを神様に感謝します。

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