見出し画像

磨いてなんぼ

 今、自分磨きのために何かやっているという人はたくさんいる。自分もその1人だ。目的は人それぞれだと思うが、自分は女性からよく見られたいという欲望からきている。筋トレがその良い例だ。筋肉をつけて自分の身体の見栄えをよくする。ただそれは同時に自分の魅力を筋肉で補おうとしているとも解釈できる。皆さんは自分の最大の魅力と言われたら何を思い浮かべるだろうか?簡単な質問ではないと思う。自分は強いて言うならば、共感力である。人の話を聞く際、共感することでその人に寄り添う能力は、人よりあると考えている。こう考えてみると、筋トレをする意義は、話を聞くという内的な魅力に加え、外的な魅力を得るためという結論に至る。他にしている自分磨きがあるとすれば、なんだろうか。意外にも思いつかない。というよりかは、していないと言った方が正しいか。男子大学生に「今の1番の生きがいはなんですか?」という質問をしたとして、ほとんどの学生が女性からの承認をあげると考える。女性からの承認以外にも生きがいはあると思うが、標準装備のような形でそれは含まれているだろう。


 「女性からの承認」を生きがいにすると、自分に対していくつかの恩恵が与えられる。先にも述べたが、その1つが筋トレである。単純に外見に磨きをかけることで、異性としての魅力が上がる。最初の段階で、我々男性が女性を外見で判断するのと同じ理由だ。だが、これにはある矛盾を含んでいる。筋トレや運動をしている女性が必ずしも男性から魅力的に思われるかと言えば、必ずしもそうではないのだ。自分は、ほっそりとした女性、腹筋があるアスリートのような体型の女性というよりかは、少し肉付きのある"骨のある"女性が好みである。特に脚に関しては人並み以上のこだわりを持っている。特に肌の色に関して…。いや、ここまでにしておく。突然の暴露をしてしまい申し訳ない。気分が悪くなった方がいれば、今すぐ読むのを中止してもらっても構わない。何が言いたいかというと、比較的肉付きのよい女性が好きな男性が存在する限り、女性の筋トレが魅力の上昇に直結する訳ではないのだ。


 それと反して、男性は筋トレが魅力の上昇に繋がる。というより、男性の筋肉は魅力の証という観念が世の中にある。その証拠に自分が行っているジムの利用者の約8割が男性である。このことからも、男性が筋トレをすれば異性から魅力的に見られるという風潮が、はっきりではないが確実に存在することがわかるだろう。たしかに遥か昔に遡れば、男性が動物の狩りに出ている間は、女性は山菜取りや屋内での作業を行っており、男性ほど筋肉を使用する頻度は少なかっただろう。こんな博識ぶった例をあげなくても、男性と女性では体の作りが異なることから、筋肉は男性的な体をつくるために必要とだけ書いておけば済む話であった。つらつらと書いているが、男は筋トレをしてなんぼ、ということだ。いや、自分にそう言い聞かせているとも思えてきた。実際、筋トレをしていて女性からの目線が変ったという感覚はない。逆に「肌の色とも相まってなんかデカいから無い方がいい」とも言われたことはある。半分冗談だと捉えているが、必ずしも魅力が上がるとは限らないようだ。ここまでは男性に焦点おいて話をしてきたが、次は女性が話の主役になる。


 筋トレをして魅力を上げる女性の割合は、男性よりも少なく感じるのは自分だけだろうか。筋トレする女性を見るのは、Instagramでのセントフォース所属のインフルエンサーやミスキャンパスNo3ぐらいのストーリーぐらいだ。今思い出したが、友人にも筋トレをしている女性は数名いた。その人たちを否定するつもりはない。その人なりに目的を持って筋トレをしているのだから。こんな風に批判を恐れて事あるごとに人を擁護するかのようなことを言っているが、これは自分の性格を如実に表している。その辺の話はまたいつかするとして本線に戻ろう。女性が男性と同じように筋トレをした場合を想定する。そうなると、筋トレをした女性を魅力的に感じる男性よりも、筋トレをした男性を魅力的に感じる女性の方が多くなると考えるのは、自分だけだろうか。というのも、筋肉がある女性を魅力的に感じた経験が自分には無いからだ。女性には、筋トレ以外の魅力を上げる方法が数多くあるのだ。それに、筋トレよりも効果的な方法だと思う。やっと前置きが終わった所だ。今回は筋トレの話がしたかった訳ではない。


 男性が女性の魅力を上げる方法を一丁前に語るなという声には封をしておきます。冷蔵庫に入れて明日の朝にでも食べようかと思います。まあ、腹を壊しそうなのでやめておきますが。女性の魅力を上げるためには、筋肉ではなく、服や顔に手を加えるほうがよいと思う。誤解しないでほしいのは、整形しろと言っている訳ではない。自分が女性の魅力を感じる点が、服や顔というだけである。細かく言えばもっとあるが、ここではその2つだけ挙げておく。

まず、服についてだ。同じ女性でも、着ている服によってだいぶ印象が変わる。服がおしゃれな人はそれだけで魅力的に見える。自分の通っている大学はおしゃれな人が多いため、すぐには比較対象が見つからないが、やはり服に気を遣っている女性は魅力的に映るので、自分も服に気を遣おうという気になる。もし、この世に男性しか存在していないとしたらおしゃれに気なんか遣わない。何なら全裸で事足りるだろう。服に気を遣うということは、服に気を遣うという努力を異性に見せるということにもなる。その姿勢も含めて魅力に感じているのかもしれない。つくづく女性の服は男性よりも種類が多いため、魅せ方にバリエーションがある点では、羨ましく思う。「シンプルな服装をした男性が好き」、「おしゃれ過ぎる男性は逆にこっちが気を遣う」という意見があるように、男性は女性よりもそこまで気を張って服に気を遣う必要性はないのかもしれない。女性の服装は男性に比べて、形と雰囲気の両方において種類が多いように感じる。大学構内を歩いていると、男性のほとんどはT-シャツかポロシャツだが、女性はそれに比べて種類が豊富である。ボトムスについても同じことが言える。上手く表現できないが、とにかく女性の服装のバリエーションは男性と比較して圧倒的に多い。その点服装で差をつけやすいと言える。弊学の構内を歩いていると、「ここは梅田です。」と言われても違和感がないほど、服装に気を遣っている女性が多い。ということは弊学においては、男性が魅力的に感じる女性の基準が厳しくなっているのだろうか。考えてみると面白い。

次に顔についてだ。顔に関しては、過去の回で批判を受けたので、慎重に書いていきたいと思う。顔はマジで大事です。美女と野獣はいるが、その反対がいないことからも、男性が女性を選ぶ主な基準は、顔であることがわかる。あくまで「主な」である。顔で選んだと言った時、全員が肯定的な意見を寄せてくれることはまずないだろう。この子の性格で選んだと言えば、聞こえが良いのは何故だろうか。それは、顔という生まれ持ったもの、本人の意思では簡単に変えられないものに対して評価をするのは、あまり美人でない人に失礼だという風潮があるからだ。昔は「事実を言って何が悪いというのだ」と、考えてしまっていた。つくづく自己中心的であったと思う。まあ、実際に言ったことはないのだが。上記の風潮はこれからも存在していくべきだと思う。それでも、女性が自分の顔を少しでも魅力的だと思っているのであれば、他人から何を言われようと問題はない気がする。だだ、そんなことは本人にしかわからないので、何も言わずジッとしておくのが賢明である。Instagramでカップルの写真を見て、「あぁ、こいつは顔で選ばれたのかな。」などと1人で想像するので十分だろう。もう一度言う顔は大事な要素である。その顔にさらに磨きをかけるのが、化粧である。次のパートでは化粧について書く。


男性が化粧について書けることなどたかが知れていると思うが、化粧をしない男性がほとんどであるのに対し、女性は概ね化粧をしている。この差はなんだろうか。なぜ女性にだけ「すっぴん」という概念があるのか。男性にあっても良いじゃないか。これらの点はいつも疑問に思っている。女性が化粧をする分、男性はハンデを背負っている。素材で勝負しているからだ。化粧しない姿が本来の姿なのだ。通常見えている女性の姿は、仮面を被った存在と言える。我々男性の中にも、被っているものがある人はいるが。そう、おちんぼうだ。このまま脱線したい気分だがやめておこう。ここで、先に述べた美女と野獣は存在するがその反対はいないという説に黄色信号が灯った。当然女性は化粧をするので、美女に見える。その仮面を剥いだ途端に「野獣と野獣」のカップルへと変化を遂げるのではないか。化粧をしているために美女に見えているに過ぎないのだ。あくまでこれは自分の想像なので、真剣に受け止めないで欲しい。自分がこのように考えるのには訳がある。ほとんどのカップルは、顔面偏差値が同じくらいだと考えるからだ。ということで、次のパートでは「顔面偏差値」について書く。


顔面偏差値とは、その人の顔のレベルを偏差値という指標を用いて数値化したものだ。可愛い人ほど偏差値は高くなる。自分は顔面偏差値の考え方について反対である。同じ顔面偏差値の女性がいたとしても、男性の好みは千差万別であるため、単純に数値化できないからだ。例えば、自分にとって丹生明里は偏差値70くらいあると思っているが、ある人にとっては、偏差値50の顔かもしれない。化粧をした女性の顔を偏差値に置き換えても、正確な偏差値は出ないと思う。人によって化粧の技術の差があるので、偏差値を出したければ、その人の化粧による魅力上昇度を測る必要があるだろう。まぁ、男性の話の話題でたまに出る「顔面偏差値」に対して、こんなに真面目に話をするのが、恥ずかしくなってきた。そろそろ「磨いてなんぼ」締めに入ろうと思う。


 自己投資はするべき投資である。ただ、顔とは非情なもので、自己投資によって磨くには限界がある。冒頭にも書いた、「皆さんは自分の最大の魅力と言われたら何を思い浮かべるだろうか?」という質問の答えは見つかっただろうか。真っ先に顔を思い浮かべた人もいただろう。ただ、それ以外にも答えはいくつもある。自分は自己肯定感が決して高くはないが、「磨いてなんぼ」の精神を持って、自己肯定感を高めようと筋トレをしている。何のために自分を磨くのか。自分のためではない。他人から良く思われたいという欲望、承認欲求が根底にあるように思える。「磨く」という行為が直接自己肯定感に繋がるのではない。他人から承認される、必要とされることで、自己肯定感が上昇するのだ。自分のように筋トレをしても「筋肉が無い方がいい」と言われてしまえば、それまでなのだ。他人からの承認が自己肯定感の上昇には必要不可欠である。


Instagramも他人からの承認欲求を満たすものとして大きく貢献している。具体的に言うと、「いいね!」やストーリーに対するリアクション、閲覧者の表示やタグ付け機能が挙げられる。これの仕組みがあることで、利用者は承認欲求を頻繫に満たせている。しかし、簡単に承認欲求が満たされることによる弊害はないのだろうか。最初書いていた話とだいぶ趣が異なってきた。さらに続けると冗長なものになってしまうので、そろそろ終わりにしたいと思う。


 今回は「磨いてなんぼ」と題したが、着地点がわからずここまで来てしまった。気づけば4700文字だ。何をこんなに書くことがあったのだろうか。上手い締め方も見つからないので、強制シャットダウンすることにする。そろそろパソコンの充電も無くなる頃だ。丁度いい。また近々ログインする。

                                (終)

この記事が参加している募集

#最近の学び

181,438件

#眠れない夜に

69,412件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?