見出し画像

「考える」とは3

 私たちの「考える」という行動は、常に何らかの前提にたっている。明日自分が死んでしまうわけではないし、明日が今日と大きく異なる世界になっているわけでもない。1+1=2のような、多くの「当たり前」が前提となっている。

 私たちが考えるとき、それは漫画のモノローグのように内面で行われる。だからこそ、誰かが何を考えているのか直接見ることはできない。自分自身にしか見えないものを前提にして何らかの判断をしている。

 それは1+1=2のような、幼い頃からの「記憶」である。あなたがこの文字を読んでその意味を理解できるように、無数の記憶の中から必要な記憶を呼び出し何らかの判断をしている。

 だがその記憶は正しいのだろうか。試験問題も勉強を怠れば曖昧な記憶で判断することになる。そもそも記憶は時間とともに忘却されていくものであり、試験当日は覚えていても、時間が経つと忘れてしまい曖昧な記憶となってしまう。インターネットで頑張って調べたとしても、世の中は間違った情報で溢れているし、間違った情報だと知りながら自身の利益のためにそれを広める人も無数にいる。

 学校の教科書ですら、その内容は時代とともに変わっている。鎌倉幕府の成立は1192年だと言う人もいれば1185年だと言う人もいる。英語の自己紹介も「My name is ~」と言う人もいれば「I am ~」と言う人もいる。

 記憶は曖昧なものなのである。多くの人がそれを経験的に知っている。記憶のすべてを正しいと証明することはできない。もしかすると過去の記憶は誰かにすべて改竄されたものかもしれないし、実は過去は存在せず過去のすべての記憶をもって、今日この世に初めて生まれたのかもしれない。

 もちろん多くの人はそんなことは非現実的であり考慮に値しないと思っている。無限の可能性を認めてしまえば人は何かを考えることができないのである。

 自分が認識できる記憶や感覚、それは現実的に正しいものだということが、「考える」上での大前提となる。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?